もうあれから2年もたつのかと戦慄を隠せないが、月日が経とうと、この作品、引いては麻枝准の評価が変わることはない。クソだ。
ただ、この作品のラストに関しては少しかんぐることができたので、改めて記事にした次第である。
まずはこの作品のラストは、とてつもない尻切れとんぼである、というのが通説だ。熱心なファンでもそこは認めるところではないだろうか。
悲劇的な別れをした二人が再開することなく、作者の分身たる十郎丸は何か満たされながらでもあるが死を迎えるのだが・・・
私が今、再度考察をするに、再会を書かなかったのではなく書けなかったとするべきだと思う。
十郎丸という人物は、作者の分身で
「誰からも理解されず」
だから
「自己をうまく肯定できず」
「孤独である」
という思想の元、描かれている。
ところが作中では己が好きだと時椿に告白されひどく揺れることになる。
つまり
「誰からも理解されず」
だが
「己を認めてくれる存在がいる」
だから
「自己を肯定することができて」
「孤独でない」
という状態になる、なるはずだった。しかし二人は引き裂かれた。
もし二人が再び出会うシーンがあるのなら、最終的に十郎丸は後者の状態になることになる。
しかしそうはならなかった、そうはしなかった。
なぜか?
おそらく「作者が今現実にそういう状態でないから」である、と私は考察する。
この小説はほとんど私小説である。
作者がもし、肯定的な状態であるのなら、そういうエンドにしていただろう。
しかし、そうせずこのようなエンドにしたのは
①己を認めてくれる存在がいない
②理解されずとも肯定されることが本意ではない
③自己肯定はできているが、うまく言葉にできなかった
のどれかではないだろうか。③はあまり考えにくいが。
①は真に孤独である、といえるが、彼のファン向け小説でこんなことを主張するだろうか?
②に関しては私にもよくおぼえがあるので共感しやすい。
私という人間はADHDや自閉症の特徴をよく反映している、いわゆる気難しい、何考えてるかわからないと思われがちである(そうであると感じる)
今でも、世間話でどこかしらズレた感想をしたり話題の転換が奇妙だったりするのだから、小さいころなど悲惨である。
知覚統合の低さからくる、運動能力の低さは、スキップができないという形で反映されたし、不注意のもたらす物忘れや時間感覚の乏しさは、他人に借りた鉛筆をなくさせたり、スキー教室でのスキーゴーグルの持ち帰り忘れ、遅刻大臣などなどとろくな思い出がない。
産まれてこの方自分の考え方が、他人に理解されたことなどない。お前は変だ、お前は変だと言われ育ったようなものである。
そんななので、私は理解という概念にある種の諦観を抱いている。この先の人生でもそれは変わらないだろう。
しかし「理解できない」でも「あなたのことは認めるよ、という人物に関しては、常に追い求めている。
通常の人間に理解できないをお互いに理解しあう、という概念はないようで、理解できないのなら断絶してしまえと考えるのが世の常のようだ。
雑にいうのなら
「お前意味わかんねえな」
「こっちも意味わかんねえよ」
「もうしょうがないなー」
「それな」
「「HAHAHA」」
といったところだ。私はこれを作者も望んでいると感じている。だからこそ時椿が何も理解していない、理解できないまま自身の分身である十郎丸を肯定しようとしたのではないか。
この小説の悪いところは、話が進んでいても、お互いの心理になんら変化がないまま、唐突に心変わりしたような展開になるところだ。というか作者原作のアニメは心理描写がいい加減すぎる。もう少し話の流れというものを大事にしてほしい。
ただ、もし今回の説が通るのなら、この作者は精神的に弱い。だからこそ、同じような弱弱しい人間に響くのだと、作者の他作品に対しても肯定的な見方を私がすることができるのかもしれない。
でもAngel Beats!は問答無用でゴミ。