どうして楽興の勉強をしなくてはならないのか、できるようになることが求められるのか、という問いはこれまでも、そして誰もが誰かに問い問われてきた命題である。
私という人間は学校のお勉強においては上位10%以内の人間である、と思っているが、その私でさえ改めて問われると答えに窮する。
これを問うのは一般的には子どもであるから、子どもにわかるように説明すべきなのだろうが、今一つ納得させられている気がしない。
せいぜい、「学校のお勉強というのは、最低限の知識だけど、最低限程度ができない雑魚なんていらないでしょ」といって子どものもつ俺様最強論を刺激する程度である。
一般的な保護者の答えとして想定できるのは
「いい大学に入れない」(爆笑)
「いい会社に入れない」(大爆笑)
「いいから黙ってやりなさい」(ある意味正解)
「社会で苦労するよ」(wwwwww)
くらいのものだろうか。経験のない子どもをこれをいったところで「こいつは嘘をついている」とバレるのがオチだろう。
一般的な大人は、子どもから大人になる過程、あるいは大人になってから自分の学のなさに打ちひしがれたからこそ、あの時勉強しておけばよかったと感じるのだろう。いや、そう思った瞬間に学べよいつやるの今でしょとはいいたくなるが。
想像でしかないが、子どもが大人を信頼する、という瞬間は、この問いへの回答、その真摯さに胸をうたれた瞬間なのだろう。
さて私個人としては、学校の「お勉強」なんぞ別にできなくていい、出来れば得することもあるけど。程度のものにムキになる必要はない。
ただし「考える」という行為を尊ぶこと、「考える」ことをやめないこと、「考える」能力があることはとても大事だと思う。
考えるということを尊いと思わない人間は、何を教えても「わかんない」「できない」「答え教えて」の三連コンボをかましてくるし、バカみたいにエヘエヘ笑っている。
勉強ができるできない以前の人間としての問題である。
そういった人間は短慮である。
通常の人間は法に触れる行為を自分にリスクがあるからそういった行為をさけている側面があるが、楽だから都合がいいからという理由で短慮な人間は法を犯す。あるいは非人道的行為をする。
野生の動物に近いのか、目があったら喧嘩を売られたと思ったと平然という人間もいれば、バレなきゃいいと人を平然と裏切ることだってする。
考えることをやめた人間は愚鈍だ。
思考を辞めて本能に委ねることは、まああまりないとはいえ大事ではあるのだが、常にそれではなりゆかない。必ず破綻するし目先の快楽に溺れる。
ギャンブルで「俺は勝ってるから」と謎の発言を繰り返すのがこのタイプだ。
考える能力のない人間の末路など想像に安い。
結局をいえば、上の3つに該当する人間は不幸せだ。幸せであることを諦めた人間といっていい。
学校の勉強というものは常に考えなければできない。そして考える習慣をつけるのには適したものだ。なんせその勉強内容を極めそれのスペシャリストになるだけで、飯が食える。スペシャリストといかないまででも教職という選択肢もある。楽だろ?