新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

カンニング竹山「古文なんて役に立たない」を論破してやろう。

そして竹山をただのアブラマシマシにしてやろう。

フルチンだかなんだかしらない社会学者?多分抱いたぜ。

 

・・・まじめにいこう。

最初にキャッチ―なフレーズをぶち込んでおけばマンバズ確定なので

 

役に立つか立たないかなどという考えは学問の前では下賤な考えである

 

と主張しよう。

役に立つ、立たないという議論はまずバカげているのだ。

どの学問も役に立つといえば立つし、立たないといえば立たない、どの立場に立つかで変わるものだ。

その中で何を学んで学ばないかを取捨選択するかはどの程度「直接的に」生活に有用かで決めるしかない。

そしてこの「直接的に」役に立つという概念は甘言であり、短慮な人間がこれにとびつくのだ。

その筆頭が英会話である。

英会話は現代では触れ合う機会の多い英語話者との対話という、ひどく単純に、眼に見える形で表されていて確かに必要課題のように見える。

私の考えでは、会話を充実させようとするより文法や地道な英作文をはじめとする読み書きの技術の習得が最優先だと思っていてその充実が会話の充実にもつながると確信している。

このように会話においては間接的に役立つ読み書きの技術が結果的に目的の実現に有効なのだと主張したい。

 

さてその考えにおいて古文はどうだろうか?

特に現代会話で多く使われるわけでもなく、古文の文法を知ったところで現代の言葉の理解につながるとも思えず、なにがいとをかしだよとなる、まるで直接的有用性を見出すことはできない。

しかし、古文・漢文における思想は現代にも脈々と流れているし、古文の言葉における日本的美の思想は日本人という人種がどういったものを好むのかをより明瞭に映し出している。

夏の夜に蛍が一匹か二匹、ごく少量飛んでいる、秋の夕暮れに雁が遠くの空に消えていくのが風情があると感じるのも詫び寂びを信条とする日本人だからこそだ。

つまり古文とは精神である。精神の修養は人としての健全な心の維持である。最高じゃねえか。

 

さてここでさらに批判が来ることが1つ予測できる。

その精神の修養とやらが大事ならそこだけ抜き出して文法などやらんでもいいじゃないか、と。

 

やはりそこは俗人の浅ましさ(って海原雄山が言ってた)

学問において、いや人間が生きる上に置いて重要なのは知ろうとする心である。過程を軽視して結果だけを重んずれば必ず滅びるだろう。

 

古文の文法など見てもよくはわからぬ。

わからないのだから知ろうとする、それがテストでしか使わないだろうと思っていてもである。

殺せんせーも言っている、学校で習ったことなんぞ忘れてもいいと、同じルールで競い合って脳を強くするんだと。

私も同意見だ、学校のお勉強なんぞ最終的に忘れてもいい、ただし何か知りたいことがあったとき正しく知ろうとして正しく努力できればいいと思っている。

 

例えばAという項目がありAに至るまでの考察で1,2,3の要素があるとして2の考察は間違っているものとして棄却されたとする。

よく主張される効率の良さを考えると、「Aという主張は1,3の要素でできています、2はどうでもいいです」と扱われがちだ。

 

しかし2という要素をなぜ間違っていたのか、どこを直せばよさそうかを考えた人は、別の学習でその反省を生かすことができる。うわっつらの要素だけ取り出した人間にはこれができない。

これこそが学びである。

 

古文でもし現代語訳だけの学習をしたならば、言葉が意味することも真剣に考えないだろうし、違う文章で同じ文法が使われててもなんとなくでしかそれを認識できず応用が効かないだろう。

文法や言葉の学習そのものが役に立つ人は少なくても、学習の家庭が役に立つ人はごまんといるのだ。

 

結論として、少なくとも英会話よりは国際人としての教育に有用である、だ。

英会話英会話とうるさい人は欧米化と国際化を混同しているのだろう、美味しんぼでいってた。

グランドスラム(パイオニア)、ダイエットする:MTGデッキ紹介

shokutamalog.hateblo.jp

 

前回までがこれ。

ぶっちゃけ過去の記事を見てほしくもあるがこのデッキは

 

①上級建設官、スラム(装備品、オーラ、機体がでると1ドロー)と語りの神、ビルギ(呪文を唱えると赤1マナを加える)をそろえる

②0マナ装備品を出してドローマナ加速、回収カードと赤のドローカードでデッキを掘る。マナの色は霊体のヤギ角で解決

③デッキを掘りきると、伝承のドラッキスを使って回収カードを回収し、スラムも回収すると、ビルギでマナが発生し続ける+回収カードを回収するで無限ループするので、苦悩火でフィニッシュ、不安ならタッサの神託者もいれておく。

 

こんなコンボデッキである。

このデッキを久々に回したところ色事故の嵐を引き起こしたことに私は憤慨した。

曰く「私の完璧なデッキが事故るはずがない、これは不運(ハードラック)と踊っちまっただけだ」と。

しかし何度回しても事故る、コンボもうまくいかない。

そして致命的な事故要因に気づいてしまう。

 

こいつだ。

効果自体はとても有用だ。しかし、雲遊+へいき(変換面倒なので市内)という

マナコストが軽く、カードを引くこと自体もこれで解決するカードがある以上、逆説的な結果は過剰なカードであるといえる。

改めて考えると雲遊のモードは持ちろん余波の効果も十二分に強力であると今回気づかされた。

その上でリストを見ると、ジェスカイカラーである必要がないことに気が付いた。

伝承のドラッキスは青を含むカードだが変容コストなら赤マナだけでなので問題ない。

土地の22枚から青が排除できたらマナベースが非常にすっきりした。デッキの構成上1ターン目はタップインで問題ないが、2,3,4ターン目のタップインは困るので、ショックランド4枚、小道4枚にファストランド4枚M10ランド3枚に基本土地、タップイン許容できるスペースがあるので隠された火山をお守りにいれた。

余談ではあるが、3年前購入した感動的な眺望所が当時の3倍の値段に跳ね上がるのはこの李白をもってしても見ぬけんだった。

 

逆説的な結果を消すことで空いたスペースには、伝説のカードをサーチできる栄光の探索、上から5枚みて歴史的なカードを加えるウェザーライトへの乗艦を加えてデッキそのものの安定を図った。

そしていくばくかの整理をして、スラムとビルギを守る救済の波濤を刺しておいた。

その結果がこれである。

www.hareruyamtg.com

いい加減デッキを画像リストで表示してくんねーかな。

 

やることは変わらないが、マナはあるが回収カードが引けない、そのときは「へいき」の余波でルーティングしよう、ハーンフェルで消耗しきってたら諦めるしかないが。

登場人物全員ケイネス先生のFate/Zeroとゲーム

現代と銘打ったが多分現代じゃなくても、例えば戦後のカジュアル麻雀における思想としてもいい気がするが。

 

ケイネス=エルネロイ=アーチボルト。

彼はFate/Zeroに登場するとても優秀な人間だ。

私は彼をゲイデス=エロネライ=ンアッー!チンボルトと呼んでいるが優秀だ。

魔術師がサーヴァントと呼ばれる歴史神話上の英霊を使役し殺し合う当作品において、彼の血統、能力は疑うまでもなく高い、そして高いが故にプライドも尊大。優等生だ。

 

そして優等生故に教え子にサーヴァント召喚に必要な聖遺物を奪われ、優等生故に教科書外の戦術を繰り出す死んだ魚の目をした主人公に、プライドと自分が有利になるように仕掛けを施したホテルの階層を吹き飛ばされ、何もかもを奪われ最後に残った婚約者の命と引き換えに「主人公は手を出さない」という約束の元戦いから降りさせられた挙句、主人公「の手駒に」婚約者ごと撃ち殺されるという

 

本当にかわいそうな人だ。人の心とかないんか?

彼の名誉、架空の人物に名誉もクソもあるかと言われればまあそうだが、彼自身の能力、とった戦術は正しいものだったと思う。相手が悪すぎた。

 

さてこれがどうゲーマーと結びつくのかといえば、ゲーマーというのはほとんどの人がケイネスなのだ。

普段の生活は不真面目なのに、ことゲームになった瞬間、異様なクソ真面目さを発揮する。有名強者の考える構成、情報をもとにtier1を擦り、真面目にみんなもそうしているからと言わんばかりにお真面目に考察する。

もっと遊べばいいのにとは思うが、まあいいでしょう。

そして突如現れた超新星のアイディアにすべて吹き飛ばされるわけだ。おもしろいことに超新星のアイディアも現代では隠すことなく公表されるし(かくしたとこで感あるし)、吹き飛ばされたところで死なないので、やはりそれを大真面目に考察するわけだ・・・

まじめか!

 

教育学部数学科と理学部数学科のカリキュラムについて調べてみた

ある「教育者気取り」で「数学科気取り」の登録人数200万人のYOUTUBERの批判記事を探していた時のことである。

 

いやなにしてんだお前と思われるだろうが、私には彼を良い目で見ることができないのでそこは突っ込まないでいただきたい。

YAHOO!知恵袋で彼に対する批判コメントを見ていたのだが、その中に

教育学部数学科は中高の数学を教えるにあたり信頼できない」

とのコメントがあった。

おそらくは、教育学部という数学に集中できない雑多な環境で鍛えた人間より、数学に集中して研究をした理学部数学科のほうが信用可能だといいたいのだろう。

 

確かにそうかもしれないし、否定するほどの材料もないので、まあいいんじゃないのか、と思うわけだが。

実際のところ、どの程度に数学への注力に差があるのか、というのは疑問ではある。

 

そこで、その信用できない教育学部数学科卒の人間たる私が、自身を引き合いに考察してみようというわけである。

 

まずは教育学部数学科。

 

1年時

解析学テイラー展開、無限級数の収束、有界性 前期後期1つずつ。

代数学線形代数 前期後期1つずつ。

幾何学…初等幾何学、平面解析幾何 前期後期1。

・集合などの大学数学の基礎的な授業。1つ。

 

2年時

解析学…2変数関数の微分積分複素解析 前期後期1つずつ。

代数学群論、何か忘れた、前期後期1つずつ。

幾何学…球面幾何、何か(必修ではないのでとってないw)で前期後期1つずつ。

統計学…推定、検定、確率論orプログラミングで2つ。

3年時

解析学ルベーグ積分or関数解析 から1つ

代数学…体、イデアルなど 1つ

幾何学…位相幾何 1つ

フーリエ解析 1つ

3年後期から各ゼミで。

 

これらの中から基礎的な授業を除いた、18の講義のうち15で単位をとればOKだった。

これに加え、各種教育学、心理学、指導法などの授業が加わるわけだ。

 

 

では理学部数学科はどうだろうか。

ここでは神戸大のものをみてみよう。

http://www.sci.kobe-u.ac.jp/jimu/kyomu/zaigakusei/binran/binran_2012/pdf_contents/2012_02_rigakubukisoku.pdf

 

卒業に必要な単位は必修含めて80近く必要だそうだ。

うわみっちりやるなあ。

シラバスで内容を確認すると、およそ自分が学んできた内容とほぼほぼ合致するので、理学部と教育学部の違いで言うと、教育学部の方が1講義あたりに詰め込んでやるせいか、ある程度の抜け落ちが許容されて、理学部はゆったりやる分単位が多く必要になるので、教育学部より詰め込んだものになると考えられる。

 

ああ、そういった意味では教育学部の人間が信用ならんというのはやはり筋が通っていると言わざるを得ないだろう。

ただ、こういうのもなんだが、学部生の間であるならそんなに差はないんじゃないかなとも思ってしまう。

ぶっちゃけ大学数学は、高校数学が好きなだけという人にはあわないし、自分は数学ができる、数学に向いていると思いあがってた学生を打ちのめしてくれやがるので、できる人とできない人の差が激しい。

その差が理学部と教育学部で違いがあるようには思えない。ちなみに私はドロップアウトボーイです。2変数関数の積分に「これどんな形になるんだよ!」とブちぎれていた(今にして思えば空間に対する知覚認知が働いていないのが原因だったのかもしれない)

 

さて、結論を言おう。

教育学部の人間は理学部の人間より信用ならない、という知恵袋民の発言は間違っている。

正しくは、数学科の人間で修士以下の人間は信用ならない、というべきであろう。

 

さて、事の発端のクソYOUTUBERだが。

私には彼のしていることは数学ごっこであると思えてならない。

厳密な説明を取っ払い、とりあえずの理解をさせる、という意味ではわからなくもないが、そういった小手先のものに頼る人間が、その先にある厳密さや正しさに目を向けるとは私には思えない。

なぜなら人間は楽をしたがるからだ。

彼は、彼自身がわかってるからその程度の認識でも問題ないということと、きちんと物事を考えられない人間が同じ認識をしたときに「わかったつもり」に陥る危険性を認識していない。

だから「はじき」などという史上最悪の方法、ああああああああああああああああああああああああああ最悪だああああああああああああ(亀田並みの感想)

などを使うように言ってしまえるのだ。

これは数学に対する不義といっても差し支えない。

彼が評価されていること、それ即ちなんとなくでしかわかってないのに、わかったような気持ちになれるあさましい人間がいかに多いのかという表れでしかないのが、どうにも私を悲観的にさせるのであった。

2023年度共通テスト英語は何を問いたいのか

まずは予備知識なしに解いた感想を言おう。

 

はじめしゃちょーと同じ点数だった(白目

 

いやそんなことはどうでもいいのだが、・・・すまない正直はじめしゃちょーを舐め切っていたので本当はショックなんだ。

 

まあしかし、今年の問題に関しては

 

・「量がえぐい」(センター時代の1.8倍だそうだ。これは序盤の文法問題が短文の       

         読み取りに代わっているのでその量もあるあろうが、これはヤバ 

         イ)

 

の一点に尽きるだろう。事実、ややこしい文法があった、とか、意味の分からない単語があった、という話は聞かないし、解いたうえでもそういうものはなかった。

 

私の意見を言わせてもらうのなら、今回のテストを作ったやつは解く人間の英語における言語処理能力が、ネイティブと同様にできると勘違いしているとしか思えない。

そもそも我々日本語を母語とする人間は、当たり前だが日本語で思考をする。つまり英語を聞いただけでは表層的な処理はできても、深い意味合い、共通テストで言うなら国語的読み取りをするのは不可能だ。

 

よく言われる「英語は英語で聞いて英語で処理するべき」というのがあるが、思考の言語が日本語である以上、実質的に不可能なものだ。可能だったとしてそれは相当レベルの高い、およそ出願大学の振り分けに使う程度のテストには不釣り合いな要求レベルと言える。

 

最近の共通テストの英語では、文を読んだだけではわからない、言葉のその先の読み取りを課す問題が出ているが、それを説く事そのもの自体も面倒なのに、時間の制約もあると考えると冷静になど文章を読めるはずもなく、ただストレスフルなだけだろう。

 

はじめしゃちょーは学生の当時、英語を専攻していて英語教諭の免許も持っているし(だとするともっと点数とれていろよと思うのは別の話)

私自体も病で集中力が欠けるのもあるし、現役を離れているのもあるが、英文を読むのが相当に速い方だと自負しているが

 

それをもってしてすら時間が足りない、はじめしゃちょーは最後の長文に間に合わず、私は最後の2問だけ勘で回答したくらいで、一般の受験者がとても太刀打ちできるとは思えない。

今回得点調整はないようだが、今まである程度英語で稼げた層が、10点以上落とす羽目になったのは英語が得意(私はそういう人間は普段アホ扱いしているが)で英語で点数を稼ぎたい人には気の毒である。

 

前文はここまで。主題に入ろう。

 

テストは意図をもって行われる。共通テストは国公立大の1次持ち点となるので、それぞれを実力通りの大学に割り振る必要があるし、国の事業として文部科学省が定めるところの教育目標の確認にならなければならない。

 

(現行の学習指導要領)

○ 小・中・高等学校を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力を養成することをねらいとしている。

  • 平成23年度より小学校5,6年生において、コミュニケーションの能力の素地の育成をねらいとして、外国語活動を週1コマ実施すること
  • 中学校では週3コマから週4コマ(約3割増:105時間⇒140時間)へ充実し言語活動を各領域で1項目追加するなど充実を図るとともに、従来の「聞く」「話す」を重視した指導から4技能のバランスが取れた指導への改善を図り、教材の題材には伝統文化、自然科学などを取り上げること

○ 英語教育においては、このような背景を踏まえ取組が進められてきたが、多文化・多言語、多民族の人々の交流や、競合と協調が求められるグローバル社会の中では、自立した人間として、他者と協働しながら、課題を解決する能力や情報を活用する能力などを更に重視することが必要である。

○ また、前述のような課題が指摘される現状を踏まえ、コミュニケーション能力の育成を意識した効果的な教育が行われるようにする。このため、これまでの英語教育の成果・課題や、英語を外国語として学ぶ諸国における取組状況とその背景などを改めて踏まえた目標・内容などの改善・充実が必要である。

○ このような観点から、更なる英語教育の充実を図るため、小学校中学年における外国語活動の導入、高学年における教科化としての制度上の位置づけや、中・高等学校における言語活動の高度化に向けた検討を、より専門的な視点から行い、学習指導要領の改訂に向けた検討に生かすことが必要である。

○ その際、英語教育を通じて育成すべき資質・能力とともに、これらを育成するために必要な小・中・高等学校を通じた一貫した目標・内容と学習評価の在り方について一体的に見直しを行うことも検討する必要がある。その際に、英語を用いて何ができるようになるかという観点から、より構造的で明確なものとし、効果的なコミュニケーション能力の育成を意識した取組を促進することが必要である(※6)。

 

【資料2-1】小・中・高等学校を通じた英語教育の目標等の方向性(検討のための資料

 

まずは、聞く話すといった能力の充実ではあるが、これは共通テストでは会話文から読み取る問題程度しか問えないだろう。

とにもかくにも、コミュケーションとバカの一つ覚えしていると思っていただければ問題ない。

正直私は、英語を学ぶ上で一番力を入れるべきは文法だと思っているので、共通テストから、文法や発音の問題がなくなったのは問題だと思っている。

そもそも大体の人間はコミュケーション的に英語を使うどころの騒ぎではない。この世の7割は中学程度の英語すら満足に理解できてないし、中学程度の英語ができないということはそもそも簡単な文すら組み立てられないということだ。

 

今回の共通テストはとにかく量が多いが、これはおそらく英語をコミュニケーションツールと考えコミュニケーションの実現を英語科の目標にしているのだから、英語を日本語と同等といかないまでも高いレベルで処理できるようになっている、すなわち国語レベルの語彙量で処理してくださいということなのだろか。

 

私には、今回の問題は、自分は英語ができる頭のいいだけの人が、御大層な目標を掲げて問題を作成したが、そこまで到達できるほど教育ができてないし、そもそも無理な目標であるのに気が付いてなかったとしか思えない。

端的に申せば、

 

うわ、意識たかーい()

IQが20違うと話が通じないという話

一般的な俗説として「IQが20違うと、会話の成立が困難になる」というものがある。

私はこれが正しいものだと思う。

 

1を聞いて10を知る人間が、いちいち2や3に戻って説明するのは実はとても労力がいるものであるし、そもそも1を理解していない相手に対してはどこから説明すればいいのか、果たして自分の説明で理解してもらえるだろうかと不安になるのももっともな話だ。

 

逆に1を聞いて3しか理解し得ない人間が、10を知る人間の、彼らにとっては普通の嗜好で、自分たちにとっての「論理の飛躍」を聞かされるのは意味が分からないだけでなく、「こんなこともわからないんだフーン」とバカにされていると感じてしまっても仕方ない。

 

10を知る人間からすれば、なんでこんなこともわからないのか、3しか理解しない人間からすれば、わけのわからないことを言いやがって、となるのだが、結局、ここで何とか会話を成り立たせるには、10を知る人間が妥協するしかない。

 

例えば話の厳密さをぶん投げる、一部の説明をなくす、といった行為をする。

IQの差というわけではないが、私も小学生相手に「紅玉とシナノゴールドなら同じりんごだから足してもいいだろうけど、ゴリラとライオンを足し算したりはしないでしょ。足し算したければ尺度をそろえるでしょ。ゴリラとライオンなら動物の仲間だよね?分数は数字が違えばゴリラとライオンくらい世界が違う」と説明したりした。

相手に話を嚥下してもらうためには、できる側が咀嚼して与えなければならない、なのでQUORAに書き込んでいたギフテッドの人はいつもそうしていて疲れているそうだ。

 

さてIQの話をしよう。

 

IQは100を平均に10刻みでその能力を判断する。100からプラスマイナス10の範囲に全体の50%が、プラスマイナス10~20の範囲に全体の30%が入る。雑に言うと、この世の人間は大体IQ80~120の間であるということだ。

130越えは全体の上位2.5%、逆に70より下は下位2.5%で激レアさん!に思えるかもしれないが一つの公立小学校の1学年に2,3人、多ければ5人くらいいると考えればまあまあな遭遇率といえる。

ちなみに知的障害のラインは70で、70周辺をボーダー、50~70を軽度知的障害としている。

 

 

WAISーⅣにおける(今はVが出ているそうだ)IQを算出するうえで、4つの項目がある。ことのついでに先日依頼していた精神障碍者手帳の医者の診断書に自分のIQが書いてあったので明記する。何の意味があるんだと思われるかもしれないが、ちゃんと意味があるので。

 

①言語理解(VCI)

見ての通り、語彙、言語に関する項目で、知識や理解、概念化の能力と言える。

私の数値は119。

 

②知覚推理(PRI)

視覚的な問題解決、情報処理能力。よくわからん。

私の数値は101。

 

③ワークングメモリ(WMI)

短期記憶の保持、処理。新たな情報を記憶するのもここ。

私の数値は128。

 

④処理速度(PSI)

複数の情報を処理する能力。マルチスレッド!?

私の数値は114。

 

私はいわゆる発達障害で、ついでに言うなら自閉症もお持ちでらっしゃれる。障碍者手帳の申請には双極性障害、いわゆる躁鬱で通すようだ。

そして発達障害の診断において、IQ間ギャップ(ディスクレパンシー)が15程度あるとそう診断される(やすい?)ようだ。私は医者ではないのでこれはネットの情報にすぎない。もしこのブログを見る人の中に自分、もしくは周囲の人がそうなのでは?と思う人がいたならあまり鵜呑みにしないでほしい。あくまで参考まで。

 

私の場合はワーキングメモリ128ー知覚推理101=27で、うん、バリバリギャップあるな!?

動作性IQが低いせいか、私の手先は壊滅的なものだし、絵なんて小学生の落書きレベルである。

小学生の時、皆がすきずきにポケモンデジモンを書いているなか、私は延々とメタモンマルマインとスカモンの絵を描いていた。

美術の時間は苦痛だったし、体育は苦手ではないにしろスキップはできない、マット運動はダメ、水泳は半分死ぬような思いをして5年間かけ25mを泳げる程度になった。

かなしい。

個人内でこれだけのIQギャップがあると、発達障害という形でとてつもない不自由不利益が生じるわけだ。

 

話を最初のものに戻すと、個人内でIQに20差があってこれだけ不和を起こすなら、それが他人に対してと考えるとどうだろうか?

もちろんIQ自体は、言語性IQのみならず言葉の処理がかんけいしてなさそうな動作性IQも含むのだし、言語性IQ一つにとっても聞く能力と言葉の知識、論理の処理と複雑多岐にわたるもので、単純にそうとは言い切れないのだが、それでもだ。

私には、この話が通じないというものは、論理的なディベートや知識を問うものでない、一般的な会話なら多少の齟齬はあれでも成り立つものだとは思う。

だが論理性を強く孕む会話となると猜疑的にならざるを得ない。

物事を3段飛びまででしか理解できない人と、5打飛びで理解できる人、1段でもう理解できない人が3人そろっても、文殊の知恵どころか、なにも出てこないだろう。もしでてくるとしたら出てくるのは、もんじゅだろう(放射能もれー)

 

ただだからといって、お互いに敬意を払うのは忘れないようにすべきだよね、とも思うのであった。

老いたクソデッカー、ウェルテルの悩み

タイトルはゲーテを気取ることにした。

クソデッキを組むうえで、一番大事なのはクソカードを探すことである。大学院におけるよい研究テーマに出会うことの重要性は言わずもがなだが、クソデッキにおいても同じことが言える。

最新のカードはもちろん、古いカードにも目を配るのだが、割とEDHの民の情報が役に立つことが多く、彼らには助けられている。

 

さてそうしたザッピングの結果、よいクソカードに出会えたとしよう。いや、良いクソカードってなんだよと言われると回答に困るのだがそこはそこ。

早速その周りを固める作業に入るのだが、そこに触れる前にクソデッキの性質に触れておこう。

まずクソデッキでは無限ループ系クソコンボ、トンチキ1ショットコンボのどちらかが当てはまるはずだ。

なんせ使うカードがクソな以上、真っ当に戦うのなら真っ当なデッキにかなうはずがない。

そしてそのコンボ先は、真っ当な結末を迎えるはずがないのだ。迎えられるのならそれはただのお真面目デッキなのだ。

最近考えたもので言うと、オボシュと災厄を携える者とセルトランドの投げ飛ばし屋をならべ、投げ飛ばし屋に頭を掴まれた砕骨の巨人が8倍界王拳かますデッキなんかがそうだ。あまりに並べる手段が思いつかなかったので没にした。

倍々ゲームは非常に面白くはあるのだが・・・

結局どのみちコンボ性が高くなるというのがクソデッキであるのだ。

 

話を戻して、結局コンボでは、必要パーツ、素材をそろえる手段、素材を守る手段、タップアンタップサクリ台が必要ならその用意が必要になるが、そこらへんは嬉々ととして我々クソデッカーもやると思う。そこをしないのならクソデッキなど組む必要はない。

そして、ある程度固まったら試験プレイだ。もちろん大体はうまくいかない。改めて必要不必要の精査をするわけだ。

最終的に完成!やったね!

 

となった瞬間、とあることに気づいてしまう。

〇〇使うのなら、△△使った方がよくね?ってあれ、それって××ってデッキじゃね?っと。

そう少しでも強いカードを使った瞬間、それなら、それならと入れ替えていった結果、己が嫌悪していたあのガチデッキとの類似性に気づいてしまう、これほど恐ろしいことはない。しかも大体の場合既存のものより劣ったものになっている。

しかし考えてみればそうなのだ、シナジー、単体でのパワー、それらが強くかみ合っているいわゆるよくできたデッキ、それすなわち環境にいるガチデッキなのだと。

強カードを入れ完成度を高めようとした結果最終的にガチデッキの劣化になる。単純にアプローチの仕方が違えど同じ結論に至ったことを喜べばいいのか悲しめばいいのか。私にはそれすらわからない。

クソデッキを強くするという作業は、正解の見えない、おそらく開拓されていない未知の分野の研究ともいえるが、気が付いたら、既存の正解に遠回しなアプローチをしていただけという悲しみ。

・・・やはりクソデッキというのは、大学院の研究テーマとよく似ているんじゃないだろうか。