新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

教育学部数学科と理学部数学科のカリキュラムについて調べてみた

ある「教育者気取り」で「数学科気取り」の登録人数200万人のYOUTUBERの批判記事を探していた時のことである。

 

いやなにしてんだお前と思われるだろうが、私には彼を良い目で見ることができないのでそこは突っ込まないでいただきたい。

YAHOO!知恵袋で彼に対する批判コメントを見ていたのだが、その中に

教育学部数学科は中高の数学を教えるにあたり信頼できない」

とのコメントがあった。

おそらくは、教育学部という数学に集中できない雑多な環境で鍛えた人間より、数学に集中して研究をした理学部数学科のほうが信用可能だといいたいのだろう。

 

確かにそうかもしれないし、否定するほどの材料もないので、まあいいんじゃないのか、と思うわけだが。

実際のところ、どの程度に数学への注力に差があるのか、というのは疑問ではある。

 

そこで、その信用できない教育学部数学科卒の人間たる私が、自身を引き合いに考察してみようというわけである。

 

まずは教育学部数学科。

 

1年時

解析学テイラー展開、無限級数の収束、有界性 前期後期1つずつ。

代数学線形代数 前期後期1つずつ。

幾何学…初等幾何学、平面解析幾何 前期後期1。

・集合などの大学数学の基礎的な授業。1つ。

 

2年時

解析学…2変数関数の微分積分複素解析 前期後期1つずつ。

代数学群論、何か忘れた、前期後期1つずつ。

幾何学…球面幾何、何か(必修ではないのでとってないw)で前期後期1つずつ。

統計学…推定、検定、確率論orプログラミングで2つ。

3年時

解析学ルベーグ積分or関数解析 から1つ

代数学…体、イデアルなど 1つ

幾何学…位相幾何 1つ

フーリエ解析 1つ

3年後期から各ゼミで。

 

これらの中から基礎的な授業を除いた、18の講義のうち15で単位をとればOKだった。

これに加え、各種教育学、心理学、指導法などの授業が加わるわけだ。

 

 

では理学部数学科はどうだろうか。

ここでは神戸大のものをみてみよう。

http://www.sci.kobe-u.ac.jp/jimu/kyomu/zaigakusei/binran/binran_2012/pdf_contents/2012_02_rigakubukisoku.pdf

 

卒業に必要な単位は必修含めて80近く必要だそうだ。

うわみっちりやるなあ。

シラバスで内容を確認すると、およそ自分が学んできた内容とほぼほぼ合致するので、理学部と教育学部の違いで言うと、教育学部の方が1講義あたりに詰め込んでやるせいか、ある程度の抜け落ちが許容されて、理学部はゆったりやる分単位が多く必要になるので、教育学部より詰め込んだものになると考えられる。

 

ああ、そういった意味では教育学部の人間が信用ならんというのはやはり筋が通っていると言わざるを得ないだろう。

ただ、こういうのもなんだが、学部生の間であるならそんなに差はないんじゃないかなとも思ってしまう。

ぶっちゃけ大学数学は、高校数学が好きなだけという人にはあわないし、自分は数学ができる、数学に向いていると思いあがってた学生を打ちのめしてくれやがるので、できる人とできない人の差が激しい。

その差が理学部と教育学部で違いがあるようには思えない。ちなみに私はドロップアウトボーイです。2変数関数の積分に「これどんな形になるんだよ!」とブちぎれていた(今にして思えば空間に対する知覚認知が働いていないのが原因だったのかもしれない)

 

さて、結論を言おう。

教育学部の人間は理学部の人間より信用ならない、という知恵袋民の発言は間違っている。

正しくは、数学科の人間で修士以下の人間は信用ならない、というべきであろう。

 

さて、事の発端のクソYOUTUBERだが。

私には彼のしていることは数学ごっこであると思えてならない。

厳密な説明を取っ払い、とりあえずの理解をさせる、という意味ではわからなくもないが、そういった小手先のものに頼る人間が、その先にある厳密さや正しさに目を向けるとは私には思えない。

なぜなら人間は楽をしたがるからだ。

彼は、彼自身がわかってるからその程度の認識でも問題ないということと、きちんと物事を考えられない人間が同じ認識をしたときに「わかったつもり」に陥る危険性を認識していない。

だから「はじき」などという史上最悪の方法、ああああああああああああああああああああああああああ最悪だああああああああああああ(亀田並みの感想)

などを使うように言ってしまえるのだ。

これは数学に対する不義といっても差し支えない。

彼が評価されていること、それ即ちなんとなくでしかわかってないのに、わかったような気持ちになれるあさましい人間がいかに多いのかという表れでしかないのが、どうにも私を悲観的にさせるのであった。