新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

カンニング竹山「古文なんて役に立たない」を論破してやろう。

そして竹山をただのアブラマシマシにしてやろう。

フルチンだかなんだかしらない社会学者?多分抱いたぜ。

 

・・・まじめにいこう。

最初にキャッチ―なフレーズをぶち込んでおけばマンバズ確定なので

 

役に立つか立たないかなどという考えは学問の前では下賤な考えである

 

と主張しよう。

役に立つ、立たないという議論はまずバカげているのだ。

どの学問も役に立つといえば立つし、立たないといえば立たない、どの立場に立つかで変わるものだ。

その中で何を学んで学ばないかを取捨選択するかはどの程度「直接的に」生活に有用かで決めるしかない。

そしてこの「直接的に」役に立つという概念は甘言であり、短慮な人間がこれにとびつくのだ。

その筆頭が英会話である。

英会話は現代では触れ合う機会の多い英語話者との対話という、ひどく単純に、眼に見える形で表されていて確かに必要課題のように見える。

私の考えでは、会話を充実させようとするより文法や地道な英作文をはじめとする読み書きの技術の習得が最優先だと思っていてその充実が会話の充実にもつながると確信している。

このように会話においては間接的に役立つ読み書きの技術が結果的に目的の実現に有効なのだと主張したい。

 

さてその考えにおいて古文はどうだろうか?

特に現代会話で多く使われるわけでもなく、古文の文法を知ったところで現代の言葉の理解につながるとも思えず、なにがいとをかしだよとなる、まるで直接的有用性を見出すことはできない。

しかし、古文・漢文における思想は現代にも脈々と流れているし、古文の言葉における日本的美の思想は日本人という人種がどういったものを好むのかをより明瞭に映し出している。

夏の夜に蛍が一匹か二匹、ごく少量飛んでいる、秋の夕暮れに雁が遠くの空に消えていくのが風情があると感じるのも詫び寂びを信条とする日本人だからこそだ。

つまり古文とは精神である。精神の修養は人としての健全な心の維持である。最高じゃねえか。

 

さてここでさらに批判が来ることが1つ予測できる。

その精神の修養とやらが大事ならそこだけ抜き出して文法などやらんでもいいじゃないか、と。

 

やはりそこは俗人の浅ましさ(って海原雄山が言ってた)

学問において、いや人間が生きる上に置いて重要なのは知ろうとする心である。過程を軽視して結果だけを重んずれば必ず滅びるだろう。

 

古文の文法など見てもよくはわからぬ。

わからないのだから知ろうとする、それがテストでしか使わないだろうと思っていてもである。

殺せんせーも言っている、学校で習ったことなんぞ忘れてもいいと、同じルールで競い合って脳を強くするんだと。

私も同意見だ、学校のお勉強なんぞ最終的に忘れてもいい、ただし何か知りたいことがあったとき正しく知ろうとして正しく努力できればいいと思っている。

 

例えばAという項目がありAに至るまでの考察で1,2,3の要素があるとして2の考察は間違っているものとして棄却されたとする。

よく主張される効率の良さを考えると、「Aという主張は1,3の要素でできています、2はどうでもいいです」と扱われがちだ。

 

しかし2という要素をなぜ間違っていたのか、どこを直せばよさそうかを考えた人は、別の学習でその反省を生かすことができる。うわっつらの要素だけ取り出した人間にはこれができない。

これこそが学びである。

 

古文でもし現代語訳だけの学習をしたならば、言葉が意味することも真剣に考えないだろうし、違う文章で同じ文法が使われててもなんとなくでしかそれを認識できず応用が効かないだろう。

文法や言葉の学習そのものが役に立つ人は少なくても、学習の家庭が役に立つ人はごまんといるのだ。

 

結論として、少なくとも英会話よりは国際人としての教育に有用である、だ。

英会話英会話とうるさい人は欧米化と国際化を混同しているのだろう、美味しんぼでいってた。