新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

感想:ケーキの切れない非行少年たち(隙自語

まずはこの書を読もうと思った理由からでも書こう・・・なんか大学のレポートみたいだがまあいいとしてほしい。

 

非行少年たち、というのは基本的に何らかの「出来事」により致命的に人の道から外れてしまうものだと思う。出来事、というのは非行に走る決定的なファクターで、そしてそれに至る「過程」というのを歩み続けた結果によって引き起こされるものであろう。

つまり、同じ出来事でも、それに対して歩んでいた過程が違えば違った結果がおこるということだ。ある人にはなんでもない出来事が、ある人にはとんでもない出来事でありうるという話である。

私はこれに覚えがあり、その出来事をしてくれたクラスメイト諸兄を一生許さないつもりだ。(隙自語

出来事というのは誰にしも起こりうることで、過程は言わずもがなである。

ここで、出来事というのは突発的なものだと認識してほしい、そしてそれを阻止するのは不可能だろう。

しかし過程に関しては気づくことができる。

非行少年が非行に走るその過程、どうしてそうなるのかを知ることは非行という問題以外にも学習の上での問題を探る上で有用、どこかしらで共通してると思い、私は当書を手に取った。

 

なんていうかだね・・・

 

思い当たるふしがおおい!

 

真面目モードに戻ろう。作者が少年院の子どもたちと面談を重ねるうち、彼らの持つ特徴に気づいたのだという。見る、聞く、想像する、といった認知の時点で歪みがある、ということだ。

例えば、ペンを貸したが返してくれない人間がいたとして、通常の人間なら「借りたことを忘れているのではないか?」「まだ使っているのだろうか?」と推測をたてて、その相手に対して「まだ使ってる?」「そろそろ返してもらってもいいかな?」と言うだろう。

しかし、彼らは「盗まれた」「むかつく」という短絡的な不安、通常の人間なら考えない、考えても強くは思わないことだが、その不安から、相手に殴りかかって奪い返そうとするのだ。

そういった原始的な側面は現代社会では歓迎されないのは諸兄も知っての通りで、クラスにそんな奴がいればつまはじきにされるのが通常だ。そしてそういった扱いや目は彼らの心を少しずつ荒ませていくのだ。

不良漫画でよくある、「お前、今こっち見てただろ?」「いやそんなことないっすよ」「嘘つけ、絶対見てたゾー」って奴である。・・・これはホモビだが。

諸兄も覚えがあると思うが、不良というのは大抵学校のお勉強ができないいわゆるバカだ。

しかし不良だからバカなのではなくバカだから不良というのが正しいところだ。

通常の人間が「不良になるメリットって何?」「そんなことしても得しない」と損得勘定で考えるところを、彼らはその考えにすら至らず、不良となるのだから。

 

インテリ不良もいる?その通りだ。そこで先ほども言った不良というのは原始的な側面があるということを思い出してほしい。

インテリ不良は、通常の人間が理性で「それはやってはいけない」と壁を作るところを、ためらわずにやってしまう人間なのだ。理性の欠落とでもいえばいいだろう。

そしてこれに似たものを私は持っている。

 

数か月ほど前、通院先の信大附属病院で知能検査を受けた。

そしてその結果は、不注意が強く出るADHDの疑いがあるとのことだった。

そういわれてみると、あれってADHDっぽい症状だな、という話が山のように出てくる。

ツタヤに財布を置き忘れてきた、さっきまで考えていたこととは別のことを考えるとその考えていたことが何だったのか忘れる

という最近のことはもちろん

野球の守備がドヘタ、スキー教室にいってゴーグルをどこかに置いてくる、小2まで教室でほじくった鼻くそを自分の椅子にペタペタつける、言わなくていいことを言っちゃう・・・多分細かい話も探せばいろいろありそうだ。

それだけではない。

その検査の結果を数値としてみせてもらったわけではないが、推論の元、医者に聞いたところ、やはり知覚推理、空間の認知に問題があった。

 

動いているものが多いと集中できない、図形を想像できない、スキップができない(練習してできるようになったけど)、よくわからないとこで転ぶ、運転が下手(合宿所でやった検査でも注意の項目がやばかった)

何より、左右がよく認識できない、というのは当書でも記述があり、そういった人間は人のマネが苦手で、例えば2人が対面していて、AとBとする。

Aが右手、東側の手を挙げたとする。そのときBにAと同じ事をしろ、と言われたならBは右手、西側の手を挙げる必要がある。

しかしこの認知がおかしい人間は東側の手をあげてしまう、つまり相手の体に対してうまく想像することができないということだ。

このことに関してはものすごく思い当たりがある。

スキップできないのを筆頭に、中学に入るまで靴紐が結べない、親父殿がもやい結びを教えるも全く覚えられない、絵が描けない(見たものを手に反映させることができない)

・・・悲しくなってきた。

そしてこういった身体的な問題は、とにかく他人に目立つ。こういった側面を笑われるという経験は心を荒ませる原因の一つである、俺にもある。絶対許さないからな某元町会議員殿。

 

隙自語はこの辺にしておこう。

ケアが必要な発達障害をもった人間は20人に1人、5%は存在すると言われているが、私のような軽度(軽度ってなんだよ俺はこんなに困ってんだぞと言いたくもなるが)の人間、普通に社会になじむ、私はゲロ吐きそうな気分になるがそれでもなんとかなじめる程度まで含めれば14%ほど存在すると示されている。

非行少年たちもそういったケアが必要だった、とはいえないが、適切でない対処を受けていたと言えるだろう。

よく学習ができない子に、「ほめて伸ばす」という施策がなされるが、当書では問題の先延ばしでしかないとしており、ほめる人間がいるうちはいいが、その人間が一生問題生徒を見れるわけではない、大切なのは一人で歩いていけるようにすることだと述べている。作者が会長を務める研究会へのリンクを貼っておく

cog-tr.net

想像力の歪み、これがなぜ問題になるのか?

 

想像力が必要な概念に「時間」があるが、この認知が弱いと、将来のために!だとか、何か月後にバイク買う!のような将来的な目標が非常に弱くなるのだ。

目標が立てられない、努力するための理由がなく努力しないデメリットは成功体験を得る機会が欠落する。これはだれでも想像できると思う。

当書ではそれに加え、他人の努力が理解できない、だからこそ他人の努力を粉砕するような非道な行為ができてしまうとあり、目からうろこだった。

 

努力は自己肯定感を産むが、この自己肯定感が低いと歪んだ自己評価を産み、また非行少年は融通が利かない頭の固い人間が多く、この二つが重なると、「自分はやさしい」と宣う非行少年ができあがる。歪んでいると指摘しても歪んだ自己評価が、自分自身を変える必要がないと判断し、反省をしないまた再犯で捕まるというオチがまっているというわけだ。

 

これらの問題に対してどのような方策をとったか、については君の眼で確かめてくれ。

 

ところで、都合のいい考えしか取り入れたがらない「自分が間違っているのでは」とは考えない歪んだ思想、相手に何か事情があるのではとは考えない短絡さ・・・

あれ、俺こういう奴知ってるな?むっ(ry