新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

ネットでよくみる算数の理不尽採点の何割かは理不尽ではない話

主題を先に書くと、


①授業の背景を理解しろ。

②テストとは何の目的でなされるか

③背後にある信頼関係を想像しましょう

④あなたの言う個性は個性ですが個性ではありません。

⑤大量生産品はこの世の中にたくさんありますがそれらは不要なものですか

 

にしぼられるだろう。

 

①授業の背景を理解しろ

授業とは適当にしているものではない。

各学期の初めには全体の指導計画を考えて時間配分、内容の確認を教員はしている。

つまり教えるべき内容を教える、のが教員の仕事であるということをキチンと理解していただきたい。

 

ただしその際に教えるべき内容を教科書会社のいわゆるあんちょこに従ったものをそのままやろうとすると、その意味を考えずに実行することになり、それは非常に愚かしい行為である。これが掛け算の順序問題の大きな原因となる。

つまり教員がしっかりとした説明ができないのにそれを児童に押し付けることで、納得もさせられないし、いわんや保護者にもである。

これのせいでちゃんと意図があるにもかかわらず理解されないという事態を招くのでホンマにな。

ちなみに俺は九九の単元に入る前に知っていた掛け算を使ったところ、クラスメイトにバチギレされたことをよく覚えている。

 

②テストの目的を考えろ

 

単純に言えば、授業で説明した内容の確認である。

 

掛け算で解いたら×された→だってこれ足し算のセクションだし
小数の掛け算で分数に直したら×された→だって少数のまま計算できるかの計算技能を見たいがためのテストだし

 

となるわけだ。

①と統合すると、テストで聞いていることは授業中に説明している、ということが言えるのにもご留意いただきたい。

だから掛け算の順序問題もしっかり授業中に伝えているはずなのである、少なくとも私の小学校の先生はそうしていて、私も納得した。

ただそれを子供に聞かなければ、自主的に「先生がそう説明していた」と保護者に言うわけでもないので、親が賢く冷静でなければならないだろう。

 

 

③背後にある信頼関係を考慮せよ

 

基本的に先生と生徒には信頼関係があるはずだ。そして先ほども書いたが、テストの採点においては気を付けなくてはならない点についても事前に通達があるはずである。してなかったらその教師はアンポンタンである。

それを考慮せず、こういうのが日本の将来をーなどと抜かすのはアホといえる。

 

④⑤個性について

 

この手のものをまとめた記事に多く寄せられるコメントに「教師の言いなり」「個性が潰される」というのがあるが、このようなコメントをする人間は大半がアホだ。ラーメンハゲのクレームをつけてくるやつの画像みたいなやつだ。
1mmでもそのような考えが頭によぎったのなら自らの愚かさを悔い、そして改めるべきだろう。

 

真D on X: "今更知ったけど…この芹沢達也(別名・ラーメンハゲ)の ...

 

まず、学校の先生の指示は聞くべきである。なぜか?子ども、特に小学校低学年の子どもには、目上の人の指示を聞き、その指示の内容をこなせるようにするのは社会の規範として当然のことをできるようにするためだからだ。
あなたが上司で「あの棚の上にあるオレオとってオレオ」と指示を出したとして、ビスコを持ってきたら「あーよくできましたねー」と褒めるだろうか、褒めないだろう。

茶道の教えに基づいて、守破離の考えを持ち出すのなら、子どもの間にすべきは徹底して守である。大人になるとこれが酒に変わるやつもいるが・・・

何、そんなんじゃ個性が育たない?

all right、では聞こう、個性とは何か?
もっというなれば社会が求める個性とは何か?

人が人らしく、か。いい理論だ。じゃあお前んちの玄関でノグソするわ、だってこれが俺の個性なんだもん。

もちろん100%これを個性と認める人はいない。

 

学校をおもちゃ工場に例えてみよう。あーんこの腕のパーツがおっきいー、まあいいやこれがこのおもちゃの個性だからね、とはやはりならない。

まず求められるのは完成しているということだ。品質のブレが許容できる範囲でなければならない。大量生産品と同じ思考なのだ。

つまり学校教育には個性はいらないのである。個性を考慮するのは、その子が飲み込みやすいよう、暮らしやすいようにするときだけで充分である。

物の例えなら、米と調味料だけを食べさせるというルールがあって、そこに所属する生徒には米以外は食べさせてはならない、ただし、おにぎりにしたり、塩を掛けたり、おかゆにしたりと形を変えて提供することが公教育なのである。

 

そもそも個性とは、誰に言われたからとかそういうものではなく、自分の意思で伸ばしていった能力にすぎない。

大谷翔平のように野球がうまいとか、川越シェフのように水に800円かかるようなレストランを経営する、これも個性である。

天才児のふきこぼれについても、公教育の範疇を越えているだろう。公教育とは最大公約数的であり、社会の平穏を保つには落ちこぼれを作らないほうに終始すべきだ。

その最大公約数的な学校社会の中で自らの刃を研ぎ続けたものだけが個性を得られるのである。個性は大安売りしていないのだ。そして大量生産品生産工場でただの大量生産品にならないように努力しなければ、そこで終わりなのである。