たしかに、と納得させられた、という話です。
自分で見てきた子供(小中学生)の中で
「うおー偏差値〇〇から大逆転勝利うおーーーーー!」
という展開があった子は0です。
できる子はそのままできていきますし、できない子はできないままそれなりの高校へ進学します。
いや、お前、できない子をできるようにするのがお前の仕事だろ、と言いたくなるその気持ちはよーくわかります、妥当な感想だと思います。
ですがね、できない子にですね
「〇〇がこうなるでしょ、それでどうなる?」
と、質問しても
「(無言の無言)」
と何言ってんだこいつって眼でこちらを見つめ、そのうち
「(早く答え言えよ)」
となるのです。
考える、ということは、私の聞いていることはどういうことか整理し、例えば前提条件は何か、使える定理は何か、条件から得られる定理は何か、を少なくとも説明できるようにするということです。
ここで第一の絞りがはいります。
「まず、考えられるか考えられないか」
しかし、残念なことに勉強ができない子はここまでたどり着けません。
第二の絞りです。
「定理、定義を覚えているか」
例えば直角三角形の証明を習った後、普通の三角形の証明で、直角三角形の証明を当てはめようとする(定義を理解してない)
円錐の側面積を「はんぼぱい」としか覚えていないため、母線でなくその扇形の円周や円の円周で聞かれるともう手が出せない、そもそもこれが(半径)×(母線)×πの略であることも理解していない(小手先のテクニックに頼り本質的なルールを覚えていない)
これは高校数学における6分の1の公式なんかがわかりやすいですね、これで簡単に計算できると過信し使うべき場面を考えないやつです。
おそらく勉強ができない子というのは、勉強とは詰め込むことだと勘違いしているのでしょう。そしてその反動で詰め込み教育は間違っていると宣うのです。
勉強が詰め込みだというのは半分正しく、まず詰め込みすらしていない状況では考えるというのには程遠く、一言で言えば話にならないです。
そして半分の間違いは、詰め込んだだけでは終わりではないという事です。
人間の脳はインプットよりアウトプットをした方が記憶に残りやすいそうです。
つまりインプットした情報を、アウトプットすることでインプットした内容の咀嚼をすることが肝要だということです。
英単語をおぼえたら、英文法をおぼえたら、まずは書いてみればいいのです。そのままでは咀嚼しにくければ、自分なりにかみ砕けばいいのです。
英検準1級のテキストをみて、resilentという単語が見たことあるんだけど思い出せないなーとなっていたのですが、children are resilent.という構文をみて、あ―たしかにそうだとすっと落ちるものがあったのを思い出します。
ちなみにresilentは弾力性のある、という意味です。
とにかく、インプットは勉強の前段階でしかなく、それ相応のアウトプットが必要となります。おそらくですが、学校の先生もそうした形をとっていると思うのです。
それなのに覚えていない子が大多数を占めるのはなぜか、と考えると
そもそも人の話を聞いていない
ことなのではないでしょうか?
私自身、あまり成績のすぐれない子に「英語の単語勉強するならこうしな」と提言したところ、「あーなるほど」とその場では納得した感じだったのです。数か月後、依然と同じやり方(ひたすら英単語を繰り返し書いている)をしているのを見て
あ、こいつ話きいてねーなとなりました。
要点をまとめると、できない子はそもそも話を聞いていない、聞いていても自分が理解できるよう考えない、インプットだけしかしていない、インプットしてから早い段階でアウトプットしないため、必要な時にアウトプットできない、ということです。さすがの私も考える能力がない、となどとは思いたくないのです。
とはいえ同じセリフ同じ時思わず口にするような奴にはそう思いますけどね。いい加減学べよって。
このなんともならない状況を何とかするには、まずはインプット、即アウトプットの流れを作るしかありません。
そのためにはまず勉強を自分事にしてもらわなければなりません。
世の中の親御さんは受験期になればおのずから勉強するなどと、思いあがっていらっしゃられるかもしれませんが、それは絶対に違います。
子ども、少なくとも中学生までは親の顔色を窺っています。そして親のそういった期待をわかっているからこそ、勉強しろと言われるのが嫌なのです。親の期待に沿おうとしているのに、そうしない自分を責められるのは嫌なのです。
高校生にもなって自分のために勉強できない奴はただの愚か者ですが、中学生まではそんなもんです。
いってしまえば受験とは「自分のために勉強する」儀式といって差し支えありません。
合格、不合格というのはタダの結果にすぎず、どこまで自分のために頑張れたか、自信が持てるだけの自己を形成できたか、そこが大事です、頑張れず結果を残せず後悔するのも経験というものです。
ちなみに私はそれを母親に妨害されました。一生恨むつもりです。
結局は何かを勉強するという行為、それこそ学校の勉強を離れて資格、人間関係のようなものであっても「自分のために頑張る」ことなのです。
そして勉強ができない子というのは勉強ができない→勉強が嫌いだという苦しみに捉われているのです。
嫌いだけど頑張れる、というのは美徳で、嫌いだからやりたくないのが普通です。
つまり自分で勉強できない(できなくて嫌いだから)という子どもが、頑張るための塾へ行ったところでベースとなる考え方が負けている以上、行っても時間を無為にするだけ、ということなのです。
たかが塾講師にそういった人の根底にある、深い気持ちを変えられると思う方がどうかしていると私はおもいます。