新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

できる子はオマージュする、できない子はパクる

YOUTUBEで動画をぼやーと眺めていた時のことである。

私のYOUTUBEのサジェストはエロゲのギャグシーンだったり、かと思えば大学の入試問題を解くYOUTUBERだったり(貫太郎さんいつもお世話になってます)、なろう系の辛口レビューだったりまあカオスなわけであるが、そこに一本の動画が表示された。

 

韓国人学生「日本から学ぶことなどない」→5分後、教室から逃げ出した・・・

 

といった、よくある日本SUGEEEE系の動画である。

余談ではあるが、私の親父殿は大谷SUGEEEE動画の虜で母からも思想偏りそうといわれている。

その動画の中で「日本は他国の文化をまずは取り入れ、それを日本の国土に適した形に手を変え品を変え、まるで最初から日本のものであったかのように錯覚するほど優れたものを作る、一方で韓国は他国の文化を取り入れて、それがあたかも自分のものであるかのように主張する」

といった、まあわからなくもないが若干日本マンセーがすぎる主張をしていた。

 

その後、私はYahooのニュースを見ていた。曰く東大生が見抜く成績が伸びる子伸びない子という動画だ。

その記事曰く

「難問に直面したとき、勉強ができる、またはいずれはできるようになるであろう生徒はまず『手を動かす』ことから始めた。一方勉強ができない、または成長も見込めない生徒は頭の中で延々と考えるだけだった」

とのことだ。

私は全面的にこの記事に同意する。

実際上位の高校に進学していく子はこちらの発問に対し「これって〇〇ってこと?」と自己流に解釈をして直面している問いを自分にわかるような形に変えようとする。

できない子はこの記事に書いてある通り、頭の中で無限に考えている。さ

らに言うなら計算過程がぐちゃぐちゃで何を考えたかこちらが読み取ることができないこともある。

 

さて、2つのものを合体させるとどうなるかというと

勉強のできる子は

「学んだことを、自己流に解釈し自分にわかる形に変えてから、それを取り入れ、類似問題を解く際には教わったことを素直に再現しようとする」

のに対し

できない子は

「学んだことを、そのまま模写し咀嚼せず、自分のやり方、往々にして間違ったやり方にこだわる」

のである。

突き詰めていくと自責思考と他責思考にも行きつきそうだ。

できる子は自分の解釈が間違っていたせいで失敗したとき、再解釈を行ったり学び直しをするだろう。

できない子は自分の解釈を持っていないので、〇〇さんがこういった、と主張し何も考えなかった自分を棚に上げるのではないか。

 

出来る子は再解釈するなど、学びに対して柔軟

 

なのに対して

 

できない子は延々同じやり方に固執する。そのやり方が正しくない効率的でないといっても聞きはしない。正しい道筋を説こうものなら「なにいってんだこいつ」と思われるのが関の山だ。

 

この違いは勉強だけにとどまらず、仕事でも起きるのだと思う。

私は大学卒業即ニートの勤労経験に乏しい人間ではあるので説得力に乏しいかもしれないが、

新しいものを1から考えるのは難しく非効率的であり、成功するには既存のものを取り入れ、それを改良し、新しい要素を加えたり、二つの別の要素を取り入れたり、ある時は不必要なものを取り払い、今までにないものをつくる。

 

これはまさしくオマージュの過程そのものではないだろうか。

 

では、できない子はどうすればいいのか?という問いには多数の回答があるだろう。

少なくとも、日常において「なぜ?これって何をいっている?」の態度を養うことは必須だろうし、失敗の経験をより深く認知させ二度と失敗したくないように煽るのも大切だろう。

現代においては詰め込み教育は忌避されることが多いが、私は詰め込みこそが教育だといってはばからない。

某「それあな感」のひろゆき氏などが知識の詰込みは調べれば済むことばかりだ、と主張するがそれはただしい。

ただし、その知識が詰め込まれているからこそ、そこから知識の輪を広げることは、ない状態よりも容易であるという事実は忘れてはならない。

私の脳、というコンピューターに入っている情報は多ければ多いほどいいのだ。

 

ChatGPTがここのところ話題になっていたがこれとの付き合い方もやはりできる子とできない子で分かれるだろう。

できる子は自分を高めるために使うしできない子は目先の問題の答えをだしてもらおうとする。

私は学校のお勉強のできるできないには対して関心をもたないが、これからの時代に求められる問題解決能力は強く育てていきたいと思う。