新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

体罰に関するよくある勘違い

体罰に関する話題を二項化しようとすると、体罰完全否定派とある程度のものは容認する派と分けることになる。

 

体罰完全否定派はわかりやすく、この世のありとあらゆる体罰、もしくは類似行為を否とする考え方をする人たちである。

ではその一方は体罰容認派ではないのか?と思われるかもしれないが、そもそも体罰容認、といってしまうととにかく殴って言うことを聞かせろという主張のようになってしまい誤解を招いてしまいかねないので、ある程度は容認すると表現させてもらう。

 

私の立場をはっきりさせるなら後者のものであるので、体罰完全否定派の方の立場は類推になってしまうことをご了承願おう。

そんな私の立場において、体罰と暴力は明確に区別され、体罰は罰を与えることで教育的効果があるものであると捉えている。

 

これを否定派は

・線引きが個人に委ねられるのなら人格に問題のある人間がするのは危険ではないか

・未熟な人間に対して暴行することが認められるはずがない。

・ほめて伸ばすほうが有意義

 

といった考えを持っていられるようだ。

 

最初に教員が児童生徒に与えられる「懲戒」を整理しよう

 

居残りをさせる〇

授業中教室から追い出す×

給食を無理やり食べさせる×

授業中起立させる〇

肉体的なもの×

 

と俗に言われる体罰は禁止されているのは確かである。要は話でなんとかしろというわけだ。

体罰否定を唱える人は性善説を支持するのだろう。

しかし現実はどうだろうか?手をだせるものなら出してみろと言わんばかりの傲慢な態度をするもの、未熟、そして頭が悪い人間が邪悪な考えに染まった時、いかに愚かになるかをわかっているのだろうか。話をしよう?誰が聞くんだお前のつまらない話なぞ。私はまずお話を聞いてもらうためには意識を自分の側に向けてもらわなければならないと思う。そして一発のビンタは千の言葉より言葉を伝える。

もちろんそれによって教員はなんらかの罰をうけるべきなのは確かである、避けれるのであればそうするに越したことはないのも事実なのだ。

 

教員の人格がー、などと抜かすが、教員は人格破綻者だけではできていない。周りが注意してれば不必要な体罰は避けれるし、そもそも殴るやつは禁止されようと殴るのだ。

そんなアホのために裁量権をわざわざ狭めるようなことをする必要がどこにあるのか。

 

正しい精神、というのは教員採用の時点で十分確認できているはずだ、それが機能してないのであればそちらを変えるべきだろう。

 

さて、本題というかタイトルの勘違いというものにいこう。

体罰否定派は

体罰」によって「子どもを伸ばそう」とするのは悪である。

それをするならほめて伸ばすべきだと主張する。

 

このほめて伸ばすというのは、プラスなものをさらに伸ばす、得意なものをより得意にするという面では有用だ。自己肯定感をはぐくむことは人間性を高めることにつながる。整理すると、加点要素をより増やそうという考え方だ。

しかし体罰を容認する側の人間は、罰を与えることはマイナスを潰すために有用だと主張しているのだ。

つまり欠点となるところを潰すことで、学校の勉強に例えるなら苦手強化潰しのようなものなのである。いうなれば減点要素を減らすことでベースアップを図るのだ。

要するに体罰否定派の人は往々にして、容認派の容認する理由を勘違いしているということだ。

そこですれ違っているせいで議論が成り立たないというのはよくあることではないだろうか。

 

結局のところ、私には、体罰否定派は子どもの邪悪について理解が低いのではないかと思う。そしてもっと言ってしまえば人間理解もである。なんというか温室育ちの温室しか知らなさそうな人間の宣い事にしかみえないのである。話し合えば解決するなら犬養毅は暗殺されていないのだ。