新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

IQが20違うと話が通じないという話

一般的な俗説として「IQが20違うと、会話の成立が困難になる」というものがある。

私はこれが正しいものだと思う。

 

1を聞いて10を知る人間が、いちいち2や3に戻って説明するのは実はとても労力がいるものであるし、そもそも1を理解していない相手に対してはどこから説明すればいいのか、果たして自分の説明で理解してもらえるだろうかと不安になるのももっともな話だ。

 

逆に1を聞いて3しか理解し得ない人間が、10を知る人間の、彼らにとっては普通の嗜好で、自分たちにとっての「論理の飛躍」を聞かされるのは意味が分からないだけでなく、「こんなこともわからないんだフーン」とバカにされていると感じてしまっても仕方ない。

 

10を知る人間からすれば、なんでこんなこともわからないのか、3しか理解しない人間からすれば、わけのわからないことを言いやがって、となるのだが、結局、ここで何とか会話を成り立たせるには、10を知る人間が妥協するしかない。

 

例えば話の厳密さをぶん投げる、一部の説明をなくす、といった行為をする。

IQの差というわけではないが、私も小学生相手に「紅玉とシナノゴールドなら同じりんごだから足してもいいだろうけど、ゴリラとライオンを足し算したりはしないでしょ。足し算したければ尺度をそろえるでしょ。ゴリラとライオンなら動物の仲間だよね?分数は数字が違えばゴリラとライオンくらい世界が違う」と説明したりした。

相手に話を嚥下してもらうためには、できる側が咀嚼して与えなければならない、なのでQUORAに書き込んでいたギフテッドの人はいつもそうしていて疲れているそうだ。

 

さてIQの話をしよう。

 

IQは100を平均に10刻みでその能力を判断する。100からプラスマイナス10の範囲に全体の50%が、プラスマイナス10~20の範囲に全体の30%が入る。雑に言うと、この世の人間は大体IQ80~120の間であるということだ。

130越えは全体の上位2.5%、逆に70より下は下位2.5%で激レアさん!に思えるかもしれないが一つの公立小学校の1学年に2,3人、多ければ5人くらいいると考えればまあまあな遭遇率といえる。

ちなみに知的障害のラインは70で、70周辺をボーダー、50~70を軽度知的障害としている。

 

 

WAISーⅣにおける(今はVが出ているそうだ)IQを算出するうえで、4つの項目がある。ことのついでに先日依頼していた精神障碍者手帳の医者の診断書に自分のIQが書いてあったので明記する。何の意味があるんだと思われるかもしれないが、ちゃんと意味があるので。

 

①言語理解(VCI)

見ての通り、語彙、言語に関する項目で、知識や理解、概念化の能力と言える。

私の数値は119。

 

②知覚推理(PRI)

視覚的な問題解決、情報処理能力。よくわからん。

私の数値は101。

 

③ワークングメモリ(WMI)

短期記憶の保持、処理。新たな情報を記憶するのもここ。

私の数値は128。

 

④処理速度(PSI)

複数の情報を処理する能力。マルチスレッド!?

私の数値は114。

 

私はいわゆる発達障害で、ついでに言うなら自閉症もお持ちでらっしゃれる。障碍者手帳の申請には双極性障害、いわゆる躁鬱で通すようだ。

そして発達障害の診断において、IQ間ギャップ(ディスクレパンシー)が15程度あるとそう診断される(やすい?)ようだ。私は医者ではないのでこれはネットの情報にすぎない。もしこのブログを見る人の中に自分、もしくは周囲の人がそうなのでは?と思う人がいたならあまり鵜呑みにしないでほしい。あくまで参考まで。

 

私の場合はワーキングメモリ128ー知覚推理101=27で、うん、バリバリギャップあるな!?

動作性IQが低いせいか、私の手先は壊滅的なものだし、絵なんて小学生の落書きレベルである。

小学生の時、皆がすきずきにポケモンデジモンを書いているなか、私は延々とメタモンマルマインとスカモンの絵を描いていた。

美術の時間は苦痛だったし、体育は苦手ではないにしろスキップはできない、マット運動はダメ、水泳は半分死ぬような思いをして5年間かけ25mを泳げる程度になった。

かなしい。

個人内でこれだけのIQギャップがあると、発達障害という形でとてつもない不自由不利益が生じるわけだ。

 

話を最初のものに戻すと、個人内でIQに20差があってこれだけ不和を起こすなら、それが他人に対してと考えるとどうだろうか?

もちろんIQ自体は、言語性IQのみならず言葉の処理がかんけいしてなさそうな動作性IQも含むのだし、言語性IQ一つにとっても聞く能力と言葉の知識、論理の処理と複雑多岐にわたるもので、単純にそうとは言い切れないのだが、それでもだ。

私には、この話が通じないというものは、論理的なディベートや知識を問うものでない、一般的な会話なら多少の齟齬はあれでも成り立つものだとは思う。

だが論理性を強く孕む会話となると猜疑的にならざるを得ない。

物事を3段飛びまででしか理解できない人と、5打飛びで理解できる人、1段でもう理解できない人が3人そろっても、文殊の知恵どころか、なにも出てこないだろう。もしでてくるとしたら出てくるのは、もんじゅだろう(放射能もれー)

 

ただだからといって、お互いに敬意を払うのは忘れないようにすべきだよね、とも思うのであった。