新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

そりゃ再犯者減りませんわなという話

鳥取で、万引きを理由に自主退学をさせられたことは不当、として当時の校長を訴えた、という事件?が紙面をにぎわせている。

 

ニュース記事の反応は

「万引きは重大な犯罪だ」

「学校長は謝罪も賠償の必要もない」

などという意見が大多数だ。

 

ニュース原文からもってくると

>原告側は、万引きは重大犯罪ではないのに、退学処分相当だと誤って信じさせられたと主張していた。

 

とあるが、これは読売側がニュース記事を簡潔にまとめるための作文と考えるのが妥当だし

今、日本ないし世界でなされている様々な犯罪と万引き、窃盗を比較すれば万引きが重大犯罪ではないと言っても差し支えないはずだ。

 

さて、今回の場合、複数回の万引きという行為に対し、自主退学をしないなら退学処分にするという通告をうけた原告が自主退学を選んだが、という話だが、履歴書に記載する際に、自主退学なら自己理由による「中退」、退学処分なら懲戒処分による「退学」と記載する必要がある。

そしてその履歴書をみる人間は「中退」と「退学」の違いについては理解しているはずなので、結果がどうなるかは火を見るより明らかだろう。まあ中退でも理由は聞かれるだろうが、それでも受ける印象は大違いだと思う。

 

学校教育法26条において

 

 第二十六条    校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当つては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない。
 ○2 懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、校長(大学にあつては、学長の委任を受けた学部長を含む。)が行う。
 ○3 前項の退学は、公立の小学校、中学校(学校教育法第七十一条 の規定により高等学校における教育と一貫した教育を施すもの(以下「併設型中学校」という。)を除く。)、義務教育学校又は特別支援学校に在学する学齢児童又は学齢生徒を除き、次の各号のいずれかに該当する児童等に対して行うことができる。
 一  性行不良で改善の見込がないと認められる者
 二  学力劣等で成業の見込がないと認められる者
 三  正当の理由がなくて出席常でない者
 四  学校の秩序を乱し、その他学生又は生徒としての本分に反した者
 ○4 第二項の停学は、学齢児童又は学齢生徒に対しては、行うことができない。
 ○5  学長は、学生に対する第二項の退学、停学及び訓告の処分の手続を定めなければならない。

https://legalus.jp/laws/S22F03501000011/law_articles/0026000000

 

という条文があるが、今回の場合、一の性行不良が主だった退学通告の理由になるだろう、もちろん四の学校の秩序も考えられるが・・・

 

今回の案件では、複数回の万引きとあるが、まあそうだろう。一度万引きをしたら捕まるまでは万引きを続けると考えるのが自然だ。赤信号は一度わたってしまおうが百回わたろうがアウトな行為なのだからそのスリルが楽しいとなればそりゃ何度だってそうする。

問題は、事の重大さではない。殺人だろうが窃盗だろうが、その罪は刑事罰によるもののみであり、それはそれで本件とは別問題なのだ。

真の問題は、この生徒が真に改善の見込みがないかどうかということだ。

 

御世間様はこの元生徒はクソ犯罪者だ、甘ったれるなふざけるなとお怒りだ。

こういった世間の風当たりが日本における再犯率を高めてくださっているのだ。

クソ犯罪者様には人権など必要ない、と言わんばかりで、なんとも一度レールから外れた人間には冷淡な日本人様らしい。そんな彼らが私は大好きだが。

 

 この事件は、原告「本件で退学処分は不当だった」→学校「そうだね、改善の見込みを信じるべきだったねごめんね」

というだけの話だ。

そして日本人の寛容のなさがにじみ出たものともいえる。本人たちは私たちが正義で正しいことをしている、この国は正しい国だと思っているが、その実、ただ異物を排除しているだけである。

古来の日本人は、海外からの文化を寛容に受け止めたと思われていそうだが、私が思うに、伝わってきたものを異物を排除しない寛大な人間が日本人になじむように間に入って、右に倣えが大好きな日本人に「みんながそうしてますよ」と売り込みでもしたんだろう。

日本人は基本的に狭量だという事実をよくかみしめて日々行動したいものである。

ストロング系を飲んだ結果

缶の7割ほどを飲んだところでヤバイ。ふわふわする。タミフルしそう。

 

いや私は、酒には強いはずだ。テキーラショット3杯でもそんなに酔わなかったしうん。

・・・考えてみればちょっと飲むスピードが速かったかもしれんばい。

今回のものは神戸居留地のストロング系(ストゼロと間違えて買ってしまった)なのだが、ツイッターで曰く、これはストゼロなら死ぬな、とのことだ。

 

ちなみに味は、酒としてはどうしようもなくクソまずいという点を除けば、飲みやすくできていると思う。

アレキサンダースレッジハンマーのような女性絶対殺すマンレベルの殺意持ってそうだ。欠点は自分も飲むとへべれけになりお楽しみどころではなくなることだが。

貧民酒レビュー:金麦

ツイッターでは散々「発泡酒とか飲む人の気が知れない」などと言ってきた私だが、実をいうと飲んだことというのはない。

初めて自分で買ったビールはスーパードライだったし、その時は埼玉に住んでいたのでKOEDOビールをよくのんでいた。

そして30を超え、思うのだ。

そういう経験(意味深)がないのはまずいのではと。

私はスーパーにおもむき、第三のビール発泡酒の冷蔵庫の前におもむく。

そして驚愕するのだ。

安い。安すぎる。

どうせなら一番クソまずいであろう一番安いのをと思ったのだがそれにしたって安いし、というかそもそもどれも値段が変わらない。

10円、20円の世界で売り上げを出すことに躍起になることに何か意味はあるのだろうかと疑いも持ったが、まずはなにか買ってみよう。

どれがいい。CMのノリが楽しいクリアアサヒか、うーん。

時間にすれば10分にも満たない時間だろうが、発泡酒売り場の前でどれにしようどれにしようと悩むおっさんの姿はさぞ滑稽だったであろう。この場を借りて謝罪申し上げる。

そして選んだのが、金麦である

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まずは開栓。

匂いをかぐ。

・・・なんだこのものすごく甘ったるいにおいは。感覚的にはスーパードライっぽいようないやそれより甘ったるい。

まあいいでしょう。

注いでみる。

・・・やはり甘ったるい。泡立ちは普通だが、なんだろうこの違和感・・・

これは飲んでみないとわからなさそうだ。

うん・・・いただきます。

意を決し、飲み込む。

うん。

 

スーパードライみたい!

 

と思った次の瞬間には、スーパードライっぽい麦っとした味が消失する。

 

後味にビール特有のえぐみもなく、のどごしさわやか。日本人は好きだろうな。

・・・とはいえ私のようなビール党には物足りない。というかビールじゃないんだから当たり前なんだけど、ビール飲んでる感じしない、アルコール入り酵母発酵麦ジュースって感じだ。

癖がないから料理には合わせやすいと思う。ただこれはビールを楽しむっていうより、酔っ払ってイヤッホオオオオオウ!!!!になるためのものだなと、思わざるを得ない。

その証拠に飲んでいくうちにビールとしての癖の強さがないので、淡々と炭酸で

喉に押し込んでいくようになっていく。

半分ほど飲んだだけで異様に飽きてくる。なのに無限に飲めそうな感じがする。変な感じだ。

 

まとめに入ろう。

まずこれの味を称するならスーパードライに炭酸水をぶち込んだものという比喩が適切だろう。

また本当に口に入れた瞬間だけはビールでそのあとは炭酸飲料と化すので、ビールのあのえぐみが、という人にはお勧め・・・したくねえー!

これをビールと認めるにはものすごく抵抗がある。

勘のラベルには「贅沢麦芽を使用」「天然水仕込み」「季節に合わせた作り」とあるがそれほどこだわるなら一般的なビールにこだわってほしいと思う。

別にこれは同じサントリー製のモルツがそんなに好きではないからとかではないのだが・・・

 

結局のところ、ビールというにはうまみが足りないし、発泡酒としてもなんか中途半端っぽそうという、まさにビール風 という言葉が似合うな というのが結論だろう

 

 

数学においてわかりやすい授業とはそれすなわち最悪である

タイトルまんま、数学においてわかりやすい授業は最悪である、と断ずる。

 

まず第一にわかりやすい授業とはなんだろう。

それは間違いなく、なんかわかった気になるような授業のことだろう。

あくまで気になるだけで実際に有益であるようには思えない。

 

ここでいうわかりやすい、とはだれにとってかと考えればそれは授業を受ける子どもたちに他ならないが、子どもとはどういう生き物なのかを想像してほしい。

私の考える子ども像では、ある一定のところでは私が考えるより大人で、またある部分では私が考えるより子どもな性質がある。

学問においてはどうだろう、こと一般的な児童、生徒というのは後者にあたると私は思う。

もちろん私が見た聞いた、子どもの時こうだったという体験談ではあるのだが、大きく外れた認識ではないと思う。

 

さてそんなお子様な子どもが勉強の時どう考えるかというと「帰りたい」「遊びたい」「寝たい」「あれもしたい、これもしたい、もっとしたいもっともっとしたい」

なもので、そして基本的に子供は考えるという事を嫌う。

大人と違って熟考することを早めにやめてしまいがち(もちろん全然考えて行動しない大人もいるが)で、とりあえずで済ませられるのであればそれで済ましてしまいがちだ。

そんな子どもにとってわかりやすい、正しくは分かったような気分になれる授業というのは、子供に考えさせるということをしないのだ。

早い話、何か問題があるとして、それを解くための考えの筋道を言うのではなく、これをみたらこうしろ、とテクニックを教え込んで、それで一問解かせてみて「おーなんかできた!」となれば完璧だ。完璧に考えさせてない。

 

 

実は、私も一度、あまり出来が良くなかった生徒にあるテクニックを教えたのだが。

その内容は帯分数の引き算で「(1と2/56)-7/56=58/56-7/56=51/56」のように帯分数を借りて計算するものだったのだが

私「帯分数っていうのは(帯分数の数字)+(分数)表せるから、足し算引き算の順番を入れ替えて(1-7/56)+2/56とやる方が帯分数側の分子が大きい時間違えにくくなる」

生徒「おかのした」

 

その結果、「(1と8/56)ー7/56」のようにそのまま引けるものにも、この考えを適用し、よくわからない解答をだすようになっていた。

 

基本的にテクニックを使うためには「どういう場合の時」「どうしてテクニックが成り立つのかを考えた」うえでなければならない。

しかし一度、テクニックを使えば解けることを(こちらからテクニックを使える場面を提示しているのだから当然だが)知ったが最後、それより奥のことは考えなくなるだろう。

子どもにとってのわかりやすい、と、我々が考える必要な要素を含め。たわかりやすくするためのものには大きな開きがある。

となると子どもにとってのわかりやすいは我々がそこで必要だと考えるものを含むことがなく、そして教える側が必要な要素を詰め込んでいくと、今度は子どもたちからわかりにくいの大嵐だ。

 

いかなることにおいても、自分で考えないで他人が与えたものだけに盲目になるのは、情けない大人にもありがちだ。

この一時的にできたような気分になるというのは本当にたちが悪く、その後自分で考えたことがないから当然だが、ちょっと応用した程度の問題をだすとすぐにぼろがでるし、その中途半端なできたという勝利経験は新たな学びへの謙虚さを奪い取ってしまう。

そもそもそういったテクニックにすぐ食いつく人間というのは大人子ども問わず「考えたくない」という情けなさを所持している。

そういった方々を食い物にするのはそれはそれでビジネスだし好きにすればいい。そしてそんな考えたくない彼らに適度に餌をあげていればいいだろう。

 

数学とはちょっと離れた一般的な概念の話をする。

もしあなたが今より自分を良くしたいとおもうのなら、まずいろいろやってみることをお勧めしたい。そのなかで成功も失敗もたくさんするだろう。その勝因敗因を細かく探っていけば一定の傾向がみえるし、そうすればいろいろな方法のいいとこどりができるだろう。そうして自分オリジナルの方法にたどり着けば最高だ。

ジンギスカンといえば

むさしやに決まっているだろうが!

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まあ画像は拝借したわけだが。

 

北海道のなんちゃらーがとかタレがどうのこうのだのいろいろあるが、むさしや以外の選択肢なんてねーから。北の田舎者はひっこんでいろ。

何?たれにつけたのなんかタレの味しかしないし、生ラムの方がいい?

知らん。こっちのほうが美味い。

 

どうでもいいけどこれに合わせるならやっぱキャベツ?もやし?両方?

でも油吸った玉ねぎも捨てがたいし・・・

英語学習における辞書などフヨウラ!!

英作文というのは多くの受験生が課題に掲げることが多いと思う。まあ大体、リスニング、長文、英作文のようなわかりやすい得点源を課題にするのだが、それは間違っていないと思う。

発音やアクセント、細かい文法の問題は正直センター英語で満点とれるポテンシャルの生徒でも間違える可能性のあるジャンルで、極端に差が開くところではないからだ。

対して、長文、英作文といったジャンルはセンターレベルのものであれば、上位陣はまず間違えない。しかし苦手な人はとことんまでにダメである。

私は間違えない側の人間だったが、間違える側の人に対して「なんでできないの?」と平然と言いかけたのを覚えている。だってみりゃわかんだモン。

 

さてまずは長文における辞書の話をしよう。

まあ和英辞典は必要がないのは確定としておいて、正直英和辞典も必要ないと思う。

 

なぜなら長文読解において全文を完全に読み解こうという姿勢がそもそもナンセンスなのだ。

わからない単語がでたらいちいち辞書で調べて?一つ一つの文章完全に訳して?

 

時間の無駄にもほどがある。君は実際の試験でもそうつもりかねと突っ込みたくなる。

もしその人が文法を理解していなかったとしたら、単語は取れても文章は作れないし、そもそもそういった学習をする人は短絡的なきらいがあるので、イディオムを無視したり(辞書には載っているが多分そこまでみない)ニュアンスをわからずに理解しがちだ。

 

テストというのは実際の会話と違って理解するための時間が十分に与えられている。会話などが文章化されているのなら、それには必然の話の流れというのがあるのだ。

地球環境を守らなきゃー、というニュアンスの文章であればガソリン自動車ばんざーい!なんてことは言わずこれをネガティブなものとして扱うだろうし、植林しようというのもまあ好意的に書くだろう。

そんな風に想像して問に挑もう。そしてまず玉砕するだろう。

辞書引いてこまごまとやってもできないんだから当たり前である。

しかし、回答後答えをみて「へーここそんなこと言ってたんだー」と思えればしめたものである。

理科の実験などで予想と結果を書かせるレポートがあるがそれと同じである。結局は自分で考えたこと以外は人間の頭には残りえないのだ。

もし辞書で単語を引いてしまったら、いくつかの言葉はあいまいながらも記憶として残るかもしれない。しかしそれはただの結果でしかなくて、考えたものではないのだ。

そも辞書でやってしまったら、私こんなに辞書に頼らなきゃできないのか、とへこむだけだ。

あくまで自分で努力して考えた結果のみが血肉になると私は信じている。

自分でわからないものを類推する、という力は案外バカにできたものでなく、事実として知っている、よりも、類推して正解を導き出す力、というものの方が尊い

実際の試験、つまり辞書などを持ち込めない場面で、そこに至るまで辞書を使った学習をしてくると、辞書がなくては全然わからんちーん。であるが、自分で類推してきたのならば、わからなくても考えが止まらないし少なくとも話の輪郭くらいは抑えられるだろう。

そういった意味で辞書というのは確認のツールである。もしあなたが似たようなニュアンスの単語がいくつかあったとして「あれ、この単語こういう意味だけど似たような意味の単語あったな」と気づけるととてもよい。そういった時はガンガン辞書を使おう、ニュアンスそのものは書いてないかもしれないが例文から悟ることくらいはできるだろう。

 

 

さて次は英作文だ。辞書など完全に、不可逆的に、不要だ。

もし私の前でそのような愚行を犯そうとする人間がいたのなら、私は躊躇なくそいつを罵倒するだろう。

英作文というのは日本語の文の、文字通りの意味そのまま素直に直訳するものではない。

人間の男が「私はなんでも食うクソ犬です」と言っているとして文字通りに訳せばI am a fuXX'in dog which eat everything.となるが・・・・これでは犬がしゃべっていることになってしまう。言いたいことはなんでも食う悪食だということなのだからI am a glutton .くらい雑に訳しても問題ない(大抵の場面は)

そもそも私たちが文字を書くということは、何かを伝えるためにしているのだ。

つまり伝わらなければ意味がない。

だからニュアンスが変わらない程度に知っている言葉を言い換える、言葉を外す、などいじくれるところはいじくって言い換えをするのだ。

完全に点数をもしかしたらもらえないかもしれない、正確に訳せるのならそれに越したことはないかもしれない。しかしそれができなければ単語が穴あきチーズになった文章しかできず、結局解答にならないのだ。こちらの方が言いたいことがわかるようになっている分ましだろう。

 

この時、辞書が完全に不要なのはわかってもらえるだろう。和英辞典で調べたというただ結果だけ得たものより、自分で考えて自分で表現できる範囲でやったほうが有益だし、知らない単語を学習ができるという辞書使用の良さも、英作文という場面でやるべきではないと私は思う。英和辞典はやはりニュアンスの確認程度には使ってもいいかもしれないがそも英作文で辞書使おうとする人間が英作文に英和辞典を使うとは思えないし。

 

 

結論から言えば、辞書は確認用。自分で考えたものには勝てないと知るべし。

 

余談:現在に至るまで英語の勉強を私はほとんどしたことはない。学校の課題はやってたし、英検があればそれに対して勉強というのはしたが、自発的にこれをやろうと考えて勉強したことは一度もない。

ないのだが、一つだけ今考えると勉強になってたんだなと思えることがあったので紹介しておく。そして決してマネするなといいたい。

高校の英語の授業中の話なのだが、授業開始とともに、教科書の一部分をあらかじめ決まっている順番で先生が指名していくのだが、私は他の人がそれをやっている間に、おおよその訳、ニュアンス探しから辞書調べまでのプロセスを授業中に行っていた。

いつあてられるかもわからない緊張感の中、答えられなくてトチったことはない、もしトチったのなら教師(担任の先生でもあったが)からなんで予習していないんですかの誹りを受け、さらに英語班員(長野では部活ではなく班活という地域があります)というメンツすらぶっとぶのだから、その緊張感はなかなかだっただろう、そしてそれが私を鍛えたと言っても過言ではない。

 

ただそういう辞書的調べが大事な単語テストは勉強しなかったので単語テストの追試をくらって、他のクラスの奴に草を生やされた。だってやってて面白くないんだもん。

 

そしてそんなこんなでアイツ英語できなんじゃないのかwwwと思わせたところを模試でぶっちぎるのが私のスタイルだった。’ドヤァ

無限の可能性()

夢も希望もないタイトルではあるが。

 

よく学生に対し「君たちには無限の可能性がある」「君たちのしてきたことを信じて」などと抜かす大人がいる。

そういった人たちは、自分が学生だった頃、それらの言葉に一度でも励まされたことがあるのだろうか?

一般的な人間というのは、そもそも、自分自身は何でもはできないが何かはできるというのを中学生くらいの時分にそれが実感に変わることがあるのではないだろうか?

たとえば勉強すれば点数なんかいつでも取れると思っていたらいつまでたっても点数があがらなかった、部活ならものすごく頑張ったのにあの学校に勝てなかった。

 

大体が思春期というのは自分を知るための時期でもあるのだから、自分自身の可能性なら自分が一番わかってそうなものだろう。

 

大人というのは子供という人間に対して子供以上に夢を見がちで、このくらいの子ならまだ無限の可能性というものに対して無邪気でいるだろうと考えがちだ。

もちろん君たちの未来は限られています。なんてことは言いにくいことだ。

だが、大人が大人にならないで、子供を子供扱いし続けてもいいことはない。そして何より大抵の人間というのは凡人だ。そして凡人の自覚くらいは中学生にもなれば持っている。

人生の先達として何かアドバイスをするならば、まず現実を見つめさせることが大事だし、その先の未来を楽しみにしてあげるべきだろう。

そうしないということは、まずは与えられた内容、という限られたものをしっかりとやる、ということの重大さとその達成の難しさを軽視していると言わざるを得ない。

 

よく受験前などの励ましで自分を信じて、というのがありがちな応援文句になっている。これも心底くだらないと思う。

自分を信じられるのは信じられるだけの努力とそれに随する結果を残したものだけだ。

やはりこれもそう数は多くない。大抵の人は自分の能力に疑問を持っているし、盤石なものだとも思っていない。

むしろそういう場合は、自分の能力をしっかり疑った方がいいだろう。

このパターンに当てはまる子供はどこか能力的に穴があるのだから、少なくともその日だけは、例えば計算ミスが多いから時間を多少使っても検算はする、漢字の問題はまず初めにやってとれる点を取りに行く、とフォローしたほうがましだ。

もちろん日ごろからそういうコミュニケーションがとれていれば何ら問題はないのだが、付け焼刃でもまだ役に立つというものだ。

自信というものはいつ折れるかわからないが、自分の弱点と向き合うということはいつでもできるのだ。

 

 

結局のところ、やれることは全部やる、課題を見つけて解決するというプロセスは何においても大事なことなのだ。