ツイッターでは定期的にシャカパチ論争が巻き起こる。
否定派は「普通に怖い、威圧的」「気が散る」「キモイ」「キモイやつがキモイことしててキモイ」といい
肯定派は盤外戦術、いやこれが普通だから、嫌なら注意すればいいのに注意してこない、否定するやつは言えないからってツイッターでいう卑怯者、という。
この論争に関する私の意見は、お察しの通り否定派であり、肯定している奴はいわゆる世間一般で想像されるカードゲームオタクだと思っている。
いや、確かにカードゲーマーというのはオタクの中でもクソな部類ではある、しかしシャカパチ肯定派というのはその中でもエリートオタクとでもいうべき存在だろう。
おそらくこの手のオタクは、自分が良ければよい、という思想をしていて人間としては犯罪を犯さないだけマシというレベルではあるのだがそのことに対して悪口を言っていると本題に入れないのでこの辺にしておく。
まずカードゲーマーになるにはカードゲームを始めることが必要となる。
その時出会うのは、試合開始の宣言と共に、セミが如くシャカパチを始め音を鳴らす異様な集団のはずだ。いっそセミのようにくたばってくれて構わないのだが、彼らはセミではなくゴキブリなのでなかなか消えてくれない上に異常者が異常者と群れている地獄絵図を繰り広げている。
しかし人間には適応力がある。いつしかその異常さに慣れ、異常者の仲間入りをするのである。そして異常者になれなかった奴がカードゲームを辞めていく。
つまり、シャカパチ怖い→まあいいか→俺もするーの三連コンボである。
異常者でいることに慣れてしまった異常者はもはや世俗の良識など投げ捨てる。もともとそういう素養があるやつがやるのがカードゲームなのだから、エリートオタクなど面白いように量産されてしまう。
そういった異常者にならないカードゲーマーも存在はする。しかし少数だ。そういった人間が、シャカパチ否定派としてツイッターなどで意見をするのだが。いかんせん少数派となってしまう。なぜかと言えば単純な話でシャカパチ多数の環境に適応できないものはそもそもカードゲームを辞めてしまうからだ。
異常な奴らが多数だから、シャカパチは常識面をしているが、客観的に見た時におかしいのはシャカパチをする側である。
多数だから正しい、というのはある種民主主義的だ、間違っていようが数の暴力で押しつぶせる、私は一般民衆の政治的主張は聞く必要がないとも思うことがある。彼らは愚かで思考するという能力が劣っているからだ・・・
などと突き詰めていくと最終的に共産主義あたりに行きつくのだから、共産主義は民主主義への絶望とでもいえるのだろう。
だからあまり過激な方向に走るのはよくないのだが、このシャカパチ案件はどうしても否定するのが正しいというのを通したくもなる。
ではなぜ彼らは最初持っていたであろうシャカパチへの抵抗感をなくしていったのだろうか。
一つは適応、もう一つはコミュニティに属す上での通過儀礼であると考える。
適応については前述したので、コミュニティに属す上での通過儀礼ということを感がえよう。
コミュニティに属すためには、そのコミュニティの郷に入りて従う必要がある。コミュニティというのは安定を謀るためのものだから、それに反するものは排除しようとする動きが働く。そしてコミュニティに属し安定を得ると、自身もそれに反するものを排除する側に回る。次第に思考をしない、コミュニティに合わせようとしなくても、安定するようになる。つまり思考停止のフェイズだ。
ここまでいくと、周りの声など耳に入らない、自分の考えはコミュニティ全体の考えでそれに反するのなら排除するだけだ。
そしてイオンのようにある程度の安定を得たコミュニティはそれ以上の拡張のために無理をしなくなる。
考え方があうものだけを取り込んでそれ以外は排除だ。
私のツイッターに、ぷよぷよ通のアーケード対戦会を受け持っていた人がいるが、その人が新規の人が入りにくい原因について考えていた。私は、この完成したコミュニティの排他性を説明した。彼はそれに納得していたが、要はなかよしコミュニティ内で話してるところには、そのコミュニティに属してる人が新規を受け入れようとしない限り入り込めないのだから、常連の人には新規さんにじゃんじゃん話しかけてやればよいということだ。
結局のところ、間違った認識のコミュニティが、間違った認識のまま肥大化し、その間違いを認識できない状態になっているのがシャカパチ肯定派という人たちだ。
中村幸也氏ではないが、思考停止状態になっている。
残念ながら私はそういったオタクがマジで嫌いなので、たぶんカードゲームでも安定したコミュニティには属せないのだろう。それでもいいやとも思う。良識派カードゲーマーとツイッターでつながってるしそれでいいと。