新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

私にとってのクソデッキとは

みなさんはクソデッキが好きだろうか?

多分、どこかの知らない人が、自分でない相手をボコボコにしているのを見るのが好きという人は多いだろう。

対戦相手が自分でなくてよかった、とも思うのだろう。そりゃそうだ、意味の分からないデッキから意味の分からない殺しをされる。これほど恐ろしいことはない。フリー対戦ならまだしもガチの場だったら顔面蒼白に違いないだろう。

 

もし身近にクソデッカーがいたのなら、そいつは皆から距離を置かれるだろう。

当然だ。

意味の分からないデッキのせいで、メタ先への対応がブレてしまう可能性だってあるし、クソデッキというのはブン回れば勝ち、回らなければ紙束という性質をもつのだから、相手が勝手にこけて死んだパターンの勝ちなんぞうれしくもなんともない。

 

では私のようなクソデッカーは何故クソデッキを組むのか。

答えは簡単だ。組みたいから、そうしたいからだ。

 

世間一般では、最近型にはまることを悪とする傾向がある。

型通りでは通用しないから、だそうだ。

私はそれに異を唱える。

型を破るにはまず型を知るべきで、大体のことは既存のアイディアへちょい足しをすることで解決するのだから、型通りで十分だと思うのだ。

 

いわゆるガチデッキというのは型にはまっているといっていいだろう。

どんなにびっくりギミックであろうとそれが安定して発生するのならもはやそれはガチといって差し支えない。

大抵の強いデッキというのは多くの人が利用する。そうした中で、あるカードは不要、あるカードが採用、といったブラッシュアップが行われていく。しかし、その動きは通常の枠組みを大きく壊すようなことはしない。あくまで与えられた型の中でしか変化し得ない。

強いデッキは多くの人が使うといったが、その多くの人はとても一般的、カードゲームオタクを一般と称すのは少し抵抗があるが、まあ普通の人だ。

 

つまり型にはまるのをよしとしない人たちがなぜか、ゲームの世界では積極的に型にはまろうとする。

一方で、私のようにカードゲームの型を破壊したいと考える人間が、現実では型にはまるべき、ゲームでは自由に遊ぶべきと主張する、この対比が何となく面白い。

 

さてクソデッカーの中には高額カードを採用しない、という人もいる。ある種の貧乏デッキで相手に勝ちたいと思うその意志は組むべきだろうが、純粋にデッキを強くするためならば高額カードの採用をためらうべきでないと私は思う。

 

実際のところ私は金銭的余裕のなさから高額カードを採用しないが、本当は採用したい。そういった嫉妬は隠すべきではないと思う。

 

クソデッキのクソさを決めるのは金額の多寡ではなく、その精神にあると私は思いたい。