新食魂島

王様は裸です、と叫びたい夜。

転売の是非と理系思想

まず初めに理系思想とはどういうものなのかを明らかにしよう。

理系思想とは

「データや論理、ある命題と命題の同値性が認められるのならそれはただしいもの」

とする考えだ。

簡単に言うと、

Aは正しい。BはAの要素の一部だ。だからBも正しい。

のようなものだ。

 

この考え方というのはある論理の上で成り立つことは正しいとしても、ほかのファクターが抜けている。このファクターはおおよその場合、論理の外から干渉するもの、いってしまえば人間の感情だ。

しかし理系思考では論理とは関係のないものであればそれは無視される。

 

ではこれを転売の是非というもので考えてみよう。

まず転売と言う行為を「法律という論理に反さない」とする。

例えば、古物商認可をとっていない、チケットなどを定価以上で販売する(いわゆるダフ行為)、といったものは除外する。

考えるまでもなく、法律に背く=非であるのでそれは考慮に入れない。

私にも卑近な例であるカードゲーム、このボックスの転売に関しては規制されていない。

メーカーが転売を禁止しているものは古物商の許可があろうと転売できないのだが、おそらくカードゲームはトレードが可能という性質上、カードの転売を禁止するとシングル販売ができなくなってしまうのではないだろうか。

残念なことにメーカーができる転売屋対策というのは限られているのだろう、小売店でも同様だろう。その客が転売屋かどうかを見極める術はないだろう。1BOXくれ、といわれて、転売ですか?と疑うわけにもいくまい。クソが。

 

というわけで、メーカーから転売禁止のお達しもない、買う量も店舗の数量限定の範囲内なら個人の自由なので大量購入も止められない、転売時の値段のつけ方も自由。経済学のお偉いさま()がおっしゃる通りそもそも定価という概念が存在せず市場価格の設定は各々に委ねられる、実に正しい資本主義だ。なんの理屈の破綻もない、完璧だ、ウォルター。

 

といかないのが世の中というものだ。悪しき買占め行為に走る転売ヤ―というのは、結局のところ、

「自分の畑があるのに、なんも問題が起きていない勝手に森を焼き払い、勝手に畑をつくる、他の人がみんなで森という資源を管理して長い間そこを使えるようにする努力を無に帰すゴミ野郎」

である。

そしてこれが正当な資本主義だからと宣い、勝手にマネーウォーズを始めようとする大迷惑さんである。

そこにいるだけで害をまき散らしている。

転売に反抗する人たちは、ジャンルごとに存在する村を守ろうとしているだけだ。

人間というのはそもそもが理屈通りには行動しないものだ。

理屈の上では正しいからと人の気持ちを理解するつもりがないのなら、生きる資格がない、はっきりと言える。